定例の幹部会が終わったあと、ベルナルドの部下が改めて運んできてくれた熱いコーヒーを飲みながら一息入れる。会議の長さはその時の議題によってまちまちだから、基本的にその日の仕事は会議の前に終わらせてくるのがお約束――とはいえ、あくまでも『基本』であって例外は存在している――なので、会議後のこの時間は今日一日の仕事を終えた達成感と安堵感に満たされる至福のひと時だ。
(今日はこのあとの予定も何もないし……とっとと帰って寝よう。そうしよう)
暗くなった窓の外を眺めながらそんなことを考えていた俺の思考の中に、ルキーノの声が無遠慮に割り込んできた。
「ジャン、昨夜はお楽しみだったようだな――イヴァンと」
ぶは、と音を立ててコーヒーを噴き出した――のは、イヴァンだ。奴の隣に座っていたジュリオがものすごく嫌そうな顔をしながら優雅な仕種で飛沫を避ける。血が集まって赤くなっているイヴァンの耳のへりを眺めながら、俺はのんびりとカップを傾けた。
(――ガキだねぇ、わかりやすくうろたえやがって)
もう少し腹芸ってものを覚えてもらいたいもんだ、と腹の中でため息をひとつ。中身の空になったカップをソーサーに戻してから、俺はゆっくりとルキーノに向き直った。
「なーんで相手がイヴァンに限定されちまうのかね? 『女と』って可能性は考えてもらえないのけ?」
そう、〝お楽しみ〟だったことは否定しないが、疑いの余地もなくその相手がイヴァンだと断じられる点に関して、性嗜好はヘテロである俺としては抵抗を示しておきたい。例えそれが事実であったとしても――というか間違いようもなく事実なんだが――俺の男としてのプライドのために断定してほしくはないというか何というか。そんな気持ちで口にした俺の台詞に、別の方角から焦ったような声が上がった。
「なっ、ジャン、てめぇまさか!?」
声をかけられた本人よりも先に反応を返してきたガキの方へルキーノが意味ありげな視線を流す。その視線は、泡を食ったようなイヴァンの表情をひと撫でしてから徐に俺の顔の上へと戻ってきた。カップに宛がわれたままひと言も発さない唇の代わりに、ローズピンクの瞳は雄弁に理由を語ってくれている。
『女なんかと寝た日には、嫉妬したイヴァンに殺されちまうだろうが』
(ハイハイ、そーですよネ)
イヴァンは俺との関係を隠したがっている――あれほど毛嫌いしていたホモ行為に耽っている自分を知られたくないからなのか、単純に恥ずかしいだけなのか、理由は分かるようでよく分からない――割には、今みたいに何かの弾みで俺との関係を周囲に知らしめるような言動をポロリしてくれる。そしてその迂闊さは俺への嫉妬に連動していることが多いわけで、奴の嫉妬深さを常日頃から目の当たりにしている人間にとっては、女はおろか、イヴァン以外の人間と俺がどうこうなるなんて無理に違いないことは嫌でも分かるという寸法だ。
(性生活がガラス張りってどうかと思うナァ……)
俺を揶揄するルキーノの言葉に分かりやすく反応してみせたのはイヴァンだけだ。それはつまり、俺とイヴァンが昨夜はお楽しみだった、というのはルキーノ以外の幹部連中にとっても既知の事実だったということだ。見えるところに痕を残したりはしていないはずなんだが、目敏い連中にかかれば一目瞭然ってことなんだろうか。それってどうよ。
「つーか気づいても知らない顔すんのがオトナってもんじゃねぇの?」
思わず漏らした嘆きは口の中だけでつぶやいただけのごく小さなものだったのに、俺の右隣に座っていた筆頭幹部殿の聡い耳にはしっかり届いていたようで、右の頬に気遣わしげな視線が注がれるのが分かった。
「お言葉だがな、ジャン。ルキーノだって、冗談でおまえの私生活に口を挟もうとしてるわけじゃない……と思うぞ」
ベルナルドはどうやらルキーノの肩を持つ気らしいが、真剣であれば口を挟んでも良いというものでもあるまい。俺がイヴァンと昨夜セックスをしたことによって、今日の仕事に何か悪影響があったわけじゃない。ギリギリのところだったとはいえ寝坊はしていないし、ベッドの中でのことを仕事の場にまで持ち込む趣味もないのだから、シノギの面でも問題は起こしていない。いずれ、俺がカポになった暁には幹部の一人を特別に贔屓していると見なされることに不都合が生じるかもしれないが、イヴァンが尻尾を出すのは俺たち五人しかいない場に限られているのだから、さしたる問題ではないはずだ。五人だけの場では警戒心を弛めてしまうぐらい、イヴァンが仲間に気を許すようになったのだと考えればむしろ良い傾向だと言ってもいいぐらいだ。
(つーか、そっちは今するような話でもねぇし……)
俺の次期カポ候補の資格は今現在も凍結されたままなのだから、カポになった時のことなど考えるだけ無駄というものだ。現時点での仕事に悪影響があるわけじゃない、未来に悪影響があるというのならば、その未来が現実的なものになるまで、見て見ぬふりをしてくれるってのが大人同士のマナーってもんじゃないのか。
頭の中に浮かんだ不満はあえて言葉にはしなかったものの、表情には出ていたようで、俺の顔を見つめるジュリオの長い睫毛が不安そうに数回、ぱたぱたと瞬いた。何か言いたいことがあるのだろう、分かりやすく躊躇ってみせるジュリオを目線だけで促すと、形のいい唇がおずおずと開く。
「ジャン、さん……今、熱が……あるんじゃないです、か……?」
(――そう、きたか……)
「別に、ねぇけど?」
ジュリオの鋭い問いかけに内心では舌打ちをしつつも、思ってもみなかったことを言われました、という表情でしれっと否定してみせる。それに対する反撃は、思わぬ方向からやってきた。
「ジャン、おまえ、イヴァンと寝た次の日は必ず体調を崩してるだろう」
確信に満ちたルキーノの声音は、その言葉が問いかけではなく事実の確認に過ぎないことを俺に知らしめてくれる。それでもまだ悪あがきをしようとする俺の右隣から、追い討ちがかかった。
「イヴァンとセックスするたびに、調子の悪さを押し隠して無理をするおまえの姿を見せられる俺たちの気持ちも察してはくれないか、ジャン……」
「………………」
要するに、みんな気づいていた、というわけだ――イヴァン以外は。
「ジャン、おまえ……マジでそうなの、か……?」
うろたえたように訊ねてくるイヴァンの不安そうな表情に、舌打ちをしたくなる。そういう顔をさせたくなかったから黙っていたというのに、これで何もかもが台無しになっちまった。
(……けど、俺が悪いんだろうな……)
ルキーノたちも、イヴァンに知られたくない、という俺の気持ちを察して黙って見守っていてくれたんだろう――今までは。だが、何ヶ月経っても一向に改善される気配のない俺の様子に業を煮やしたルキーノが口火を切って、他の連中もそれを止めることなく後に続いた。何も知らないイヴァンがどうにかできるわけはなく、俺が改善の努力をすべきだったのに、何もしなかったツケが回ってきたってわけだ。
(だけどなぁ……こればっかりはしょうがねぇじゃん?)
男同士のセックスなんてそもそもが不自然な行為なのだ。最初の頃に比べれば俺もイヴァンもずいぶんと慣れてきたとはいえ、本来性行為に使うべきではない場所を使うからにはやはり負担はあって、一晩に回数を重ねればその分負担も累積されて、翌日の体調の悪さとなって表れる。回数を減らせば少しはましだが、まだ若いイヴァンを相手に我慢をさせるのは至難の業だ。まして、昨日は久々だということもあって俺まで一緒になって十代のガキみたいに盛ってしまって、弾切れになるまで撃ち尽くしてしまった。やばい、という意識はあったが止められなかった。
イヴァンを選んでしまった以上、このだるさが快楽の代償だというのであれば、甘んじて受け入れるしかない。一人だけすっきりした表情で前を歩くイヴァンの横顔を見ていると、俺だけに代償が降りかかってくるのは不公平だと思う瞬間もあるが、二人揃って体調を崩すよりはましに違いなかった。
(――あー、なんか、マジでだる……)
隠していても意味がなくなってしまったと分かったとたん、それまでとは比べものにならない猛烈なだるさが襲いかかってくる。真っ直ぐに座っているのもつらくなってソファに深く身体を沈めた俺に、ベルナルドがため息混じりの声をかけてくる。
「ジャン……男同士だからしょうがない、なんて考えてるわけじゃないだろうな? 男同士だってほとんど負担のないやり方がちゃんとあるんだぜ?」
「エ、そーなの?」
ちょっとばかり驚いたような声になったのは、ベルナルドの言葉の内容ではなく、奴の声音のせいだ。聞きかじった知識を披露としているというよりは、経験に基づいて語っているようなその口調に、疑問が湧き起こる。
(ベルナルドって、男いけたんだっけ?)
その疑問を視線に載せてチラリと奴の顔に投げかけると、受け止めたグリーンアップルの瞳が眼鏡の奥で柔らかく細められる。
「一度コツを掴めば簡単さ。――俺が、教えてやってもいいけど? もちろん、実地で、ね」
「なッ!?」
誘うような甘い口調に俺が反応を返すよりも先に、イヴァンが動揺したような叫び声を上げる。だが、ベルナルドはそれを無視して俺だけを見つめながら熱心な口調で続きを口にした。
「どうだい、ジャン。一度試してみないか? やり方を覚えたらイヴァンにも教えてやればいい」
「な、な……」
壊れたオモチャのように口をパクパクさせているイヴァンを見て、俺はため息を一つ漏らした。
「ちょーっと意地が悪いぜ、ダーリン」
「俺は本気のつもりだが?」
「おい、ベルナルド、あんたなぁ――」
「ベルナルドに教わるのが不満なら、俺が教えてやってもいいぜ」
まだ悪ふざけを続けるつもりらしいベルナルドをたしなめる言葉は、口から出るよりも先にルキーノの言葉で遮られてしまった。
「ルキーノ、あんたまで何をふざけてるんだ。だいたい、あんたは女専門だろうが」
以前交わした会話の中では男は趣味じゃないと言っていたはずのルキーノが、男同士のセックスについて教授できるほど慣れているとは思えずそう突っ込むと、ルキーノは実に華やかな笑顔で応じてくれる。
「確かに男とやったことはないが、女相手のアナル調教ならバッチリだ。ケツの穴なら男も女も大して変わらんだろう」
「あー、そー……」
安心して任せてくれ、とでもいうかのように自信に満ちたその笑顔を見ていると、横っ面を張り倒してやりたくなるのは何故だろう。願望はともかく現実にはだるくて指一本さえも動かしたくない俺は、気のない返事だけを返してゆっくりと目を閉じた。そこに、遠慮がちなジュリオの声が降ってくる。
「あ、の……ジャン、さん……」
「んー? どした、ジュリオ?」
熱烈なキスをしたまま離れたがらない目蓋を片方だけ無理やりこじ開けると、ジュリオがうっすらと頬を赤らめながら俺を見つめているのが見えた。
「俺は、その……誰とも経験はない、ですけど、ジャン、さんのためなら……頑張り、ます」
「――はぁ?」
まさかの童貞宣言――本当にまさかだ。金持ちのボンボンで見た目も頭の中身も申し分なく、運動神経に至っては超人レベルのジュリオが童貞だなんて、デイバンの女どもはいったい何をしていたんだ――に驚いたのもさることながら、その童貞君が俺のために何を頑張ってくれるというのか。否、ここまでの俺たちの会話の流れを考えれば何を頑張ってくれるつもりなのかは自明ってやつなんだが、くたびれ果てた俺の脳はいつもの半分も回っておらず、理解が追いつかなかった。ぼんやりと見つめる俺の視線の先で、ジュリオがはにかんだ笑みを浮かべる。
「ジャンさん、が望むなら、その、俺、が抱かれても……いいです」
「ジュリオ……」
ジュリオの台詞を聞いたとたん、俺の中で感動の嵐が吹き荒れた。ベルナルドやルキーノの申し出には微塵も心を動かされなかったのは奴らの言葉の中に俺たち――というか、主にイヴァン――をからかって、仲を引っかき回してやろうという悪戯心が明らかに含まれていたからだが、ジュリオはどこまでも真っ直ぐで真剣だった。イヴァンと寝ているからといって決してホモになった覚えはないが、望めばどんな女でも喜んで股を開きそうなイケメンに、俺になら抱かれてもいい、とまで言われれば心が揺れるのは無理もない。
(なんつーか、ジュリオを抱きてぇとはまったく思わねぇんだけど、さ)
どうせ抱くなら女の方がいい、という気持ちに変わりはない。だがそれはそれとして、真摯に俺を想ってくれている、というのが充分すぎるほどに伝わってくるジュリオの申し出に、くすぐったいけどそれ以上に嬉しい気持ちが溢れ出る。俺はくっついていた両の目蓋を引っ剥がして、濃紫の瞳をしっかりと見つめた。
「サンキューな、ジュリオ」
「ジャン、さん……」
見つめ合う俺たちの仲を裂いたのは、肌色の塊だった。嗅ぎ慣れた煙草の匂いで、いきなり両目を塞いできたそれがイヴァンの掌だと気づくのとほぼ同時に、耳の横で喚き散らされる。
「ジャン、てめぇ、もう我慢ならねぇ! 俺以外の男と見つめ合ってんじゃねぇ!! つーか他の男に口説かれたりしてんじゃねぇよ!!」
「――イヴァン、汚い手でジャンさんに触れるな。離れろ」
「うるっせぇ、こいつは俺のモンだ! 自分のモンに何しようが俺の勝手だ!!」
強気な言葉とは裏腹に、俺に触れるイヴァンの手は不安げでいつもよりも力が弱い。目を塞がれているせいなのか、そんな些細な違いに気づいた俺は、イヴァンの手を振り解けなくなってしまった。代わりに、イヴァンの手首を掴むと、目の上からイヴァンの手を離れさせる。開けた視界の中で微妙に情けない表情を見せるイヴァンに軽く片目を瞑ってみせると、俺は肉の厚い掌に小さなリップ音を立ててキスをした。
「ダーリン、そんなに心配しなくても、アタシはアナタだけのものヨ」
笑い混じりのふざけた口調だったにもかかわらず、首まで真っ赤になって黙ってしまったイヴァンの顔を見て、俺は自分の頬が弛むのを感じた。できれば他の連中に自分のそんなだらしない表情を見せることは避けたかったが、こんなに可愛い反応を見せられてしまってはどうしようもない。
イヴァンの手を掴んだままよっこらしょ、とソファの上で身を起こすと、俺は他の三人の顔を見回して肩をすくめた。
「ま、そういうわけで、君たちのお申し出はとても嬉しいんですけど、俺はイヴァンだけでお腹いっぱいなんだわ。ゴメンネ」
「そうか……仕方ないな」
そう言って苦笑するベルナルドは、本当に残念そうに見えるんだが、どういうことだ。まさか、本当に俺に実地でアレコレ教えたかったとでもいうんじゃねぇだろうなこのエロガッパ。そもそもおまえが男もオッケーだなんて聞いたこともなかったってのに。もしかして俺って今まで色々とやばかったりしたのか。
「気が変わったらいつでも俺に声かけてくれよ」
そう言ってウィンクしてくるルキーノは、明らかにイヴァンを挑発したがっているのが見え見えだ。以前よりは格段に良くなったとはいえ、ルキーノとイヴァンの仲にはまだまだ改善の余地がある。俺がカポになるに当たっては、この辺の問題もクリアしなくちゃならないな。
「ジャンさん、がそう、言うなら……」
しゅん、としているジュリオを見ていると頭を撫でてやりたくなってしまうのは何故だろう。しかし、俺を見つめる哀しそうな瞳が、イヴァンに移されると一転、殺意を湛えた物騒なそれに変化するのはまずい気がする。いつかジュリオが〝うっかり〟イヴァンを殺しちまったりするんじゃないか、なんてのは考えすぎだろうか。
「ジャン……!!」
「はいはい、落ち着こうなー」
感極まったようにぎゅうぎゅうと抱きついてくるイヴァンの背中を宥めるように叩いてやりながら、俺はこれからのことに思いを馳せていた。
(――やっぱ、負担のない方法をベルナルドに教わっておくべきか?)
もちろん、実地はなしの方向で。