目が醒めたのは、ドアの向こうから聞こえてくる足音のせいだった。板張りの床をこちらに向かってくる、ブーツの分厚い靴底が立てるお馴染みの音。一緒に寝ていたベッドをいつの間にやら脱け出していた恋人が、この部屋に帰ってこようとしている。そのことに気付いた俺は、ベッドの上でゆっくりと上半身を起こした。身体にまとわりついていたシーツが滑り落ちて、素っ裸の俺の腰周りでわだかまる。朝の空気は冷え切っていて、肌を刺すような冷たいそれにぶるりと身震いした時、控えめな音を立ててそうっとドアが開けられた。その隙間から、電柱みたいな身体を折り曲げたバクシーが顔を覗かせる。
「お、ジャン。もう起きてたのけ」
独りでいる時は常に何かを警戒しているかのように隙のない顔つきをしているその男は、部屋を覗いた瞬間もそのような顔をしていた。だが、ベッドの上で半身を起こしている俺の姿を目にした途端、その面に一瞬で明るい笑顔が浮かぶ。まるで飼い主の帰りを出迎える犬のように。親を見つけた迷子のように。純粋な喜びと好意に溢れたその無防備な笑顔に、俺は――何だか、胸が詰まるような気分になった。
最初は、いつかぶっ殺してやろうと本気で思ってたんだ。俺の誇りを剥ぎ取って、男の尊厳を踏みにじって、母親の形見まで奪い取っていったキチガイ野郎。絶対に許さない、許せるわけがないって。
それなのに。意外な面倒見の良さを見せつけられ。野郎のイカレた言動はブラフで、実際はかなり計算高いクレバーな男だってことを知り。いつの間にやら背中を預けられるぐらい信頼できる相棒になって。
(――今じゃ、何者にも代えがたい、最愛の恋人、だ)
トンネルの中でバクシーの部下たちに引きずられていた時の俺に。車の中でバクシーにレイプされていた時の俺に。このことを教えてやったら一体どんな反応が返ってくるだろうか。絶対にありえねぇ、何をどうしたらそうなっちまうんだ、って。頭がイカレたか、おかしなクスリでも打たれたんじゃないのか、って。そんな風に喚かれるに違いない。
だけど、どんなに過去の俺が理不尽だって喚き散らそうが。こいつが隣にいればどんな敵だって怖くねぇし、何だってできるような気分になれる。自分よりも遥かにでかい図体をした、素手で人間をバラせるような凶悪な男が、どうしようもなく可愛く見えちまう。そんな自分がいることを否定するなんて無理だ。
「バクシー」
ベッドの上に座ったまま、腕を差し伸べて。最愛の男の名前を呼ぶ。
「ン? どうしたよ?」
飼い主に呼ばれた犬みたいに素直に近寄ってきたバクシーが、俺の顔を覗き込むように上体を屈めた。その首に両腕を巻きつけて引き寄せ、首筋に彫られた刺青に噛みつく。硬い筋肉の歯応え。だが、急所に噛みつかれてるってのに、抱きついた体は特に緊張に強張ることもなく俺にされるがままだ。無条件の信頼の証に、俺の胸はますます苦しくなる。
「なぁ、バクシー……お前のでかちんこで、レイプ、してくれよ。今、すぐに……」
あんなに許せないと思った最低の行為。それを自ら強請る今の俺の姿を、あの時の俺が見たなら。そんな未来を受け入れたくないと死を選ぶかもしれない。
だけどもう遅い。いつの間にか頭の天辺までこの底なし沼に浸かっちまって、脱獄名人を気取ってたこの俺ですらどうやっても脱け出せない。――否、脱け出したくない、んだ。
「愛してるぜ、バクシー、――ん、ふ……」
でかい口から出てきた長い舌が、べろりと俺の唇を舐め上げて、それから噛みつくみたいに口づけられる。俺の様子がいつもと違うことには気づいてるだろうに、そんなことはおくびにも出さない恋人の優しさに。
――今日も俺は溺れる。