ポツリ、頭上から落ちてきた水滴に、ジャンは空を見上げた。先ほどまで薄曇りだった上空はいつの間にやら黒雲に覆われている。秋になると雨の日が増えるような気がするな、というのはあくまでも彼個人の体感であって、実際のところは不明だ。そしてその感覚が的を射ていようと外していようと、この一帯が今から雨に見舞われるという事実には何らの影響も及ぼさない。幸いなことに、カサブランカはもうすぐ目の前だった。
本格的に降り出す前に滑り込んだ店内で、厳しくも優しき女店主が差し出してくれた甘いコーヒーを啜る。寡黙な老女を相手にぽつりぽつりと他愛のない世間話をしながら、窓の外の降りしきる雨を見るともなしに見る。やがて雨足が少し弱まった頃合いに、見慣れた車が通りをやってきて、店の前で停まった。運転席から出てくる大きな人影に、ジャンの口元が意図せず緩む。
「うひゃー、ちべてー」
ぼやきながら、大きな身体を屈めるようにしてドアをくぐって店内に踏み込んできた男に労いの言葉をかけようとしたジャンは、それよりも先に男の有様に目を奪われてしまった。
「車だったのに、何でそんなに濡れてんだ、バクシー?」
「ずーっと車に乗ってたわけじゃねぇからなぁ。さっきまでいた場所がよぅ、藁葺き屋根っつーの? その編み目がスッカスカで雨漏りどころか素通し状態だったンだよ」
ついてねぇ、とぼやきながら水浴び後の犬のごとく頭を振った男の髪の毛先からいくつも水滴が飛ぶ。その一つがジャンの手の甲にヒットした。想像していたよりも冷たい感触に驚かされる。考えるまでもなく冬は目前なのだから、当然と言えば当然のことだった。
「早く拭かないと体温下がっちまうな。俺の部屋に来いよ、ちょうど乾いたばっかりのバスタオルがある」
「ジャンが拭いてくれんのけ?」
「何言ってんだおまえ、タオル貸してやるから拭くのは自分でやれっつーの。ガキじゃねぇんだから」
空になったカップをカウンターに置き、リリーにコーヒーの礼を告げる。それから徐に立ち上がったジャンは、大型の獣を従えて、自身が寝起きしている部屋へと足を向けた。
◇ ◇ ◇
部屋に入ったジャンはソファの上に置いてあったバスタオルを手に取ると、ドカドカとでかい靴で足音を立てて後ろをついてきた男に向け、振り返りもせずに放り投げる。投げられた男はジャンの視界の外で、特に慌てた様子も見せず、危なげなくそれをキャッチした。男に背を向けたまま床の焚き火跡に火を起こしたジャンは、そこでようやく後ろを振り返り――手にしたタオルをそのままに、所在なさげに立ち尽くす男の姿を目にして。
はあ、と。大きなため息がジャンの口からこぼれ出した。それを耳にしたバクシーは、どこか拗ねたような表情になる。その大きな口から子供じみた言い訳が飛び出す前に、ジャンは立ち上がって大きな手に握りしめられていたタオルを取り上げた。そうして、自分より頭半分以上も高い位置にある顔を見上げる。パチ、パチ。この後の行動に迷うように瞬きを繰り返す男の目を見返しながら、頑丈な脛を軽く蹴りつけた。
「しゃがめよ」
「エッ、あ……?」
「お前の方がでかいんだから届かねェっつーの!」
「――……ッ!!!」
いそいそとソファに腰を下ろした電柱男を鼻息荒く見下ろして、その頭にタオルを被せたジャンは、わしわしと手荒くその髪の水分を拭き取ってやる。お世辞にも優しい手つきだとは言えないはずなのに、それでも嬉しそうに緩む目が口が、タオルと髪の毛の隙間から見え隠れする。
無防備に晒された男の首筋、DGの刺青を目にした途端、胸が詰まるような気持ちになった。ジャンが知る中でも一、二を争うほどに警戒心の強い男が、自分の前ではあっさりと急所を晒して無防備に笑っている。彼から向けられる手放しの信頼は、自分も同じだけ彼に向けているものだった。一時は何もかも失ったと思っていたはずの己の手の中にあるこれは、決して当たり前のものではないのだと知っている。
「フヒ、あったけぇなァ、ジャぁン」
タオル越しに伝わる体温などあってないようなものだろう。バクシーの言う「あったかい」が意味することを理解できないほど鈍くもなければ、理解した上で何の感慨も抱かずにいられるほどの朴念仁でもないジャンは。
「っとに、しょーもねぇ……」
しょうがないのは己か、相手か。そんな益体もないことを考えながら、ジャンはソファに座る大きな猫の上で背中を丸めるようにして身を屈めて。その逞しい首筋の上に浮かぶ間抜けで愛おしい刺青に、キスを落とした。