いつものようにジャンをマンションの部屋へと送り届けたイヴァンは、これまたいつも通りにスマホでスケジュールを確認しながら予定を伝えていく。次は三日後の朝九時にこの部屋に迎えに来ることを告げてから、最後に釘を刺すことも忘れない。
「明日明後日はオフになってるが気を抜いて泥酔して面倒事に巻き込まれたりすんなよ、ジャン」
「分かってるって。俺、最近は品行方正にしてんじゃん?」
軽い調子で応じるジャンに、イヴァンはジロリと疑わしそうな視線を向けた。過去に一度、イヴァンの目を盗んで遊びに出た結果、二日ほど音信不通の行方知れずになったジャンへの信用は未だ完全に戻ってきてはいない。
オフの間も一日一度は安否確認の連絡を取るようにしている相手が電話に出ずメッセージにも既読がつかないという状況で、イヴァンがどれだけ心を痛めたことか。その上、ようやく連絡がついたかと思えば行方を晦ましている間にジャンは怪我を負っていた。大したことはないので病院には行かないと言い張って、怪我を負った経緯も明かそうとしないジャンの態度に、イヴァンは心配を通り越して切れたものだった。
尤も、イヴァンがどれだけ切れて凄んでみせようが、イヴァンと付き合いの長いジャンにとっては心配の裏返しであるということは筒抜けで。弱りきった表情のジャンに縋られたイヴァンは、結局のところジャンの言い分を受け入れるしかなかった。
一連の事態についてはボスのベルナルドに報告する義務があったのに、それすらも「お前以外には知られたくない」というジャンの言葉で有耶無耶になってしまった。ベルナルドが海外出張に行っていたことと、ジャンのスケジュールにしばらく余裕のある時期なのがジャンとイヴァンにとっては幸いだった。自分の責任問題にも発展するからな、と己に言い訳をして事を隠蔽したイヴァンだったが、「お前だけが頼りなんだ。頼むよイヴァン」というジャンのひと言に優越感を刺激されたことは否定できない。
患部を見せようとすらしなかったために、ジャンの負った怪我がどのようなものだったのかは未だに不明だった。ただ、その後数日は歩くのにも椅子に腰を下ろすのにも苦労をしていたジャンの世話をしてやったイヴァンとしては、また同じようなことが起こってはたまったものではない。そんな思いを込めてジャンを睨みつけるイヴァンに、ジャンは困ったような顔で笑い返した。ジャンが仕事に穴を空けることをマネージャーとして警戒しているというのはもちろんあるのだろうが、イヴァンは単純に友人としてジャンの身を心配をしているのだ。そのことを、ジャン自身が一番よく理解している。もう二度とあのような事態にはならないから安心してくれ、と当の本人は胸を張って言えるのだが。
(――あの時何で俺が怪我したのかイヴァンは知らねぇから、ってのは分かってるケド……)
油断して泥酔した挙げ句に男にレイプされてあらぬ場所に怪我を負ってしまったことは、例え親友であるイヴァンが相手であっても知られたくはないジャンだった。当のレイプ犯とはその後和解を果たして現在は恋人と呼べる間柄になっており、彼の存在についてはいずれイヴァンやベルナルドに打ち明けなくてはならないと考えているが、出会いのきっかけについては詳らかにするわけにはいかないだろう、とも考えている。
怪我の原因はレイプによるものだったが、その相手が再び自分を害することはない。
言葉にしてしまえば簡単なことこの上ないが、馬鹿正直にそんなことをイヴァンに言えるわけがない。どう考えたところで最終的にはその結論に達する以上、地道に信用の回復に努めるしかないのだろう、と。そんなことを考えながら心配性のマネージャー兼親友の顔を眺めていたジャンは、その目元に色濃く残されている隈に目を止めた。
「イヴァン、また眠れてねぇの?」
「――ッ……チッ」
何の前触れもなくイヴァンの顔に伸ばされた手が、指でゆっくりと目の下をなぞっていく。触れられた箇所からじんわりと伝わってくるジャンの体温と、心から心配そうに自分を見つめる蜂蜜色の瞳に。誤魔化しを口にしようとしていたイヴァンはそれが無駄な抵抗だと悟って舌を鳴らした。
「明日明後日は俺もオフだからな。ちゃんと休む」
「つってもさぁ、お前の不眠症は仕事の忙しさとかとはまた別問題じゃん?」
「――それはそう、だけどよぅ…………」
見透かされていることに対する居心地の悪さと、何の利害もなくただ真摯に自らを思いやってもらえる心地よさ。イヴァンの不眠症の原因を把握しているジャンの言葉にないまぜになった感情を持て余し、子供じみた表情で唇を尖らせて口ごもったイヴァンに。
「――久々に、うちでちょっと寝てくか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべたジャンの口から抗いがたい魅力を持った提案が投げかけられ、イヴァンは反射的に頷きを返していた。
◇ ◇ ◇
「愛してるのはアタシだけだって言ってたのは嘘だったのねェェェー!?」
「ぅわ、え、何だ?」
突如響き渡った絶叫に、イヴァンは跳ねるように飛び起きた。隣に寝ていたジャンの驚きの声は、寝室の入口を塞ぐように立っている男に視線を奪われているイヴァンの耳を右から左へと素通りしていく。
第一印象は「やたらとデカい」のひと言に尽きた。人並外れた巨躯のその男――どう見ても暴漢だが、そんな人間が何故セキュリティのしっかりとしたジャンの部屋に易々と入り込んでいるのか。イヴァンは混乱しながらもとにかくジャンだけは護らなくては、と男の視線を遮るように自らの背後にジャンを庇う。そんなイヴァンの姿を見て、男は底光りする両眼を気に入らぬげにゆっくりと細めた。蛇に睨まれた蛙のような心境で内心冷や汗を垂らしながらも不審者を睨み返すイヴァン。その背中の後ろで、ようやくまともに頭が働くようになったジャンが暢気な声を上げる。
「あれ、バクシー? お前今日は来れなかったんじゃねぇの?」
「予定が変わったんだよ。俺が来れないと思って油断して他の男を連れ込んでたってわけですかこの淫乱わんわんがよぅ」
「ハァ? 俺を何だと思ってんだ。コイツ、知ってんだろ? 俺のマネージャーだっつーの」
「そのマネージャーが何でおめーのベッドで一緒に寝てんだよ」
「あー……ちょっと訳があってな。添い寝してやってたんだ」
「どんな訳があったら恋人でもねぇ男に添い寝してやる羽目になるんだっつーの」
「やー……それはオトナの事情っていうか」
友人のごくプライベート、かつセンシティブな事情を勝手に口にすることを憚ったジャンのはっきりとしない物言いに、バクシーの目がどんどんと据わっていく。
「オトナの事情……ねぇ。やっぱ浮気じゃねぇか。よし殺す。絶対殺す。確実に殺す。めらっと殺す! 間男は死ねェェェ!」
「ワー! 待て、殺すな、話せば分かる!!」
瞬時に距離を詰めてイヴァンに腕を伸ばし掴みかかろうとした男の腰に、イヴァンの背後から飛び出したジャンが慌てたようにタックルをする。どんな体幹をしているのか、ジャンの全力の突撃を受け止めてもビクともしない男と、その腰に両腕を回してがっちりとしがみつくジャン。そんな二人の姿を呆然と眺めながら、ようやく事態を薄っすらと把握したイヴァンは。
「だ、だ、だ、誰が間男だァァァァーーーーーーーーーー!?」
渾身の絶叫を腹の底から絞り出した。