まだ朝日が完全に顔を出しきっていない早朝。ベニヤ板で補強された破れ窓の合間から夜の気配を引きずった薄紫色の空が垣間見える、そんな時間帯にバクシーは目を覚ました。
ベッドの上に横たえられた屈強な肉体は、掛布団代わりに引き被ったキルトの下に隠されている。長い両の腕にしっかりと抱え込んだ柔らかく温かな塊へと、ひどく優し気な視線を向け。蜜色に輝くその頭頂部に、バクシーはそっと唇を押し当てた。
恋人を起こさないようにできる限り慎重にそこから脱け出したバクシーだったが、ジャンは目を閉ざしたまま唸り声を漏らして不満を訴える。自分を抱え込んでいた熱が無くなったためなのか、或いはバクシーが出て行く際に入り込んだ隙間風が気に入らなかったのか。己の不在そのものが彼に不満を抱かせているのであれば嬉しいのに、と考えている自分に気づいて、バクシーは小さな笑いを漏らした。
「すまねぇなぁ、ジャン。すぐに戻るからいい子で寝ててくれや」
閉じたままの瞼を微かに痙攣させる恋人の眉間の皺へ小さくキスを落とし。謝罪の言葉を投げかけながら、ジャンの全身を僅かの隙間もできないように念入りにキルトで包んでやって。そこで初めて、全裸の肌を刺す空気の冷たさに気づいたかのように、バクシーは全身を大きく震わせる。
床の上に脱ぎ捨てられた衣服を一つずつ拾い上げながら身に着けていったバクシーが最後に手に取ったのは、テーブルの上に投げ出されていた紙屑だった。クシャクシャに丸められていたその紙を大切そうにそっと掴み上げ、それからソファで眠る恋人へともう一度視線を投げかける。
昨晩、溢れんばかりのバクシーの情欲を全身で受け止め、最後には気絶するように眠りに落ちた彼の恋人は、今は安らかな寝顔で健やかな寝息を立てていた。ジャンは線の細い見た目からは想像もつかないほどにタフな男だが、彼が目覚めるにはまだ今しばらくの休息が必要なはずだった。かれこれ一週間以上も溜め込んできたバクシーの性欲に限界まで付き合わせたのだから無理もない。
(――愛してる)
声には出さず心の中だけでそう囁いてから、もう一度だけ、名残を惜しむようにジャンの髪の毛にキスを落として。天井の破孔から二階の自室へと、バクシーは移動した。
孔から這い上がって自室の床の上に立ったバクシーは、履いている革パンツに掌を叩きつけて手についた汚れを払い落とし。目の高さに持ち上げた己の指先をじっと眺めてから小さく首を傾げると、その辺に引っかけてあった布切れを手に取って、それで丁寧に指先を拭っていく。
一頻り手を拭ったところでようやく満足そうな表情を浮かべ、バクシーは上半身に引っかけているベストの隠しへと手を忍ばせた。そこから引っ張り出した皺くちゃの紙切れを、皺の一つ一つを丁寧に伸ばすようにしながら慎重に開いていく。
『俺のアレよりも大切な俺の馬鹿ちんぽ野郎のバクシーへ』
ジャンの部屋にあるベッドのマットレスの下にしまい込まれていた一枚の紙切れ。それはジャンからバクシーに向けて書かれた手紙だった。以前バクシーがジャンに宛てて書いたラブレターの返事のつもりであったらしい、それ。
見覚えのある筆跡で書かれた自分の名前に、長い指先がゆっくりと触れ。大切な物にそうする手つきで愛おし気に幾度もなぞる。その手の甲に、不意にどこからか水滴が落ちてきて、皮膚の上で砕けて弾けた。
「――ア?」
驚きに声を上げたバクシーが、その出所を探ろうとするよりも先に、第二第三の水滴が床の上へと落ちていく。そこでようやく、バクシーはそれが自身から――己の両の眼から溢れ出したものだということを悟った。
「マジか…………」
奇妙な形に歪んだ大きな口から、彼にしては珍しい、途方に暮れたような声が零れ落ち。その間にも新たなる涙が精悍な頬の上を滑り降りて顎を伝って落ちていく。
「やべぇな……こんなん……あの時以来ぶりじゃねぇの……」
大怪我を負って意識不明になっていた恋人が二週間ぶりに目を覚ました時のことを思い出しながら独り言ちたバクシーは、手に持っていたその紙切れを――ジャンからの手紙を胸に押し当てて。ゆっくりと、瞼を伏せた。
ジャンへの手紙を――生まれて初めてのラブレターを書いた時のバクシーは、特に返事を期待してそうしたわけではなかった。ただ己の中に渦巻く感情に突き動かされるようにして、浮かび上がる言葉を書き綴っていたに過ぎない。そこにはいくらかの不安もあった。
ジャンが欲しくて手を伸ばし、掴んで引きずり降ろして無理矢理に己のものにした、という自覚がバクシーにはある。その一方で、ジャンはバクシーを選ぶ以外に道がなかったこともまた、バクシーは知っていた。望んでジャンを得た自分と、独りになりたくなければバクシーを選ぶしかなかったジャンとの立場の違いを思う度、バクシーの胸には暗い影が差す。
初めての恋に浮かれて舞い上がっている自分に対して、ジャンは自分のことを都合のいい竿便器ぐらいにしか思っていないのではないだろうか。という形の影が。
結局のところ、それでも構わないとバクシーは割り切るしかなかった。今は互いの想いの形が重なっていなくても、これから恋人として過ごしていく中でゆっくりと重ねていけばいい。体のいい肉棒扱いだって、ジャンに触れることを赦される人間が自分だけであるならばむしろ大歓迎だった。
だが、ジャンからの返事には決定的な愛の言葉こそ書かれていなくとも、バクシーに対するジャンの素直な気持ちが綴られていた。バクシーのことを大切だと、可愛いと、自分のものだと、そう表現して。早く会いたい、二人きりになりたい、そうしてバクシーと触れ合いたいと思っているのだというジャンの気持ちが疑いようもなく記されているその文字列に。
昨夜、ジャンの目の前で初めてその手紙を読んだ時はただただ興奮を煽られただけだったというのに。独りきりになって改めて読み直した今、興奮よりも劣情よりも遥かに大きく、心臓のど真ん中の柔らかい部分をごっそりと抉られたような気分で、バクシーはただ涙を流した。
「なぁ、ジャン……オメェ、スゲーよなぁ……」
自分に宛てて書かれた恋文めいた文面を読んでいるだけでバクシーは、すぐ傍にジャンがいて、くっついて寄り添ってくれているかのように感じられる。見慣れた書き文字で綴られた自分の名前を、「可愛いバクシー」というその文字を目にすると、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような胸の苦しさを覚える。それと同時に、ジャンに抱きしめてもらっている時のような――そうして抱きしめられた身体をゆらゆらと揺らされているような心地良さにも包まれる。
「ヤベェ……心臓が痛ェわ……」
些細な書き文字一つでここまでショットガン・バクシーの心を揺さぶり狼狽えさせることのできる男など、アメリカ中を探し回っても他には存在しないだろう。そう確信しながら。涙に濡れた頬を左の掌で擦ったバクシーは、それだけでは足りないと気づいて先ほど手を拭くのに使った布切れで顔を乱暴に拭い。胸に押し当てていた紙をゆっくりと持ち上げて。
ありったけの愛を込めて、その紙に口づけた。