Invisible Boundary』を前提とした現パロ話。続くかもしれない。

Invisible Boundary – 現代編 –

11,359文字 / 約13分
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先日から通い始めたジムでひと汗かいたあと、シャワーで身体を軽く流した俺はジェットバスに身を沈めていた。この後はサウナに行くか、それともマッサージチェアでくつろぎのひと時を過ごそうか。そんなことを考えながら目を閉じると、急激に睡魔が襲ってくる。

(ヤベェ、ここで寝たら溺れちまうぞ

もう三ヶ月近く、仕事が立て込んでいて忙しくて仕方がなかったのだ。睡眠不足に運動不足、それに加えて食生活の乱れ。その余波は肉体面にも顕著に表れていて、ある日自宅の風呂場に据え付けられている鏡で己の全身をまじまじと眺めた俺は思わず言葉を失った。
鏡の中の自分を見た最初の感想は、胴周りが絶妙にぽっちゃりしてきている、だった。他人から見れば決して太っているとは言われないだろうが、それでも腰回りを指で摘めば誤魔化しようのない脂肪の層がそこには存在していた。指先に生じるふにふにとした触感に、俺は危機感を覚えた。
もう少ししたら繁忙期が終わる。そうしたら馴染みのバーに行って、好みの女の子がいたら声をかけて、あわよくばお持ち帰りなんてできたらいいなぁ、と。鏡を見る直前の俺はそんな脳天気なことを考えていたのだ。だが、こんなだらしのない身体を女の子の前で晒すことになるのかと思ったら、期待に膨らみかけていたチンコが一気に萎むような心地になった。
そうして、暇ができてからじゃ遅いだって、時間ができたらすぐに女の子と遊びてぇじゃんかと、仕事の合間を縫って始めたジム通いなわけだが。

(体力には自信あったけど、やっぱ眠いもんは、眠ぃ

湯の中に沈めた身体から力が抜けそうになる。ちょっと目を休めようと伏せただけのつもりだった瞼は鉛のように重たくて、持ち上げようとしてもなかなか開いてはくれない。この数ヶ月の不規則な生活パターンによって蓄積された疲労の波が一気に押し寄せてきて、意識を呑み込まれそうになる。深くなる呼吸、まどろむ意識。ジェットバスの水流の心地よさがそれらをさらに後押ししてきやがる。

(あー、やべ

「君、大丈夫?」

意識が完全に沈み込む直前、近い距離から投げかけられた声に引き止められた。反射的に目を見開いた俺は、すぐ目の前に立っていた男の顔を見上げる。均整の取れた身体つきをした若い男が、身を屈めるようにして俺の顔を覗き込んでいた。厚く引き締まった胸板に、彫刻めいた上腕二頭筋。黒いスイミングパンツの上方、くっきりと割れた腹筋の溝を、水滴が伝って落ちていく。

(見せるための筋肉、っつー感じだな。俺の好みとしちゃもうちっとこう、実用的な感じの方が

水滴の行方を無意識に目で追いかけながら、ぼんやりとそんなことを考える。自他共に認める女好きの俺だが、実はある種の男に対してだけ、妙な反応をしちまう癖があった。背が高くて、筋肉質で、持て余しちまいそうな感じに手足が長い。そういう体型の男が傍に来ると、妙にそわそわして、腹の奥が疼くような、そんな感覚に陥っちまう。
自分のそういった嗜好を自覚するようになったのはここ数年のことだが、思えばセンズリを覚えるよりも以前からそういう傾向はあったような気もしていて。まだ試したことはないが、もしかすると俺は男もイケるんじゃないのかとその手の身体つきをした男が俺の真ん中どストライクってやつなんじゃないか、と。
それは、ここ数年来の自分への問いでもあった。

(どっちにしろ、こいつは好みじゃねぇなぁ)

初対面の男に対して至極失礼な感想を抱く俺に対し、相手は俺の肩にそっと手を置いて心配そうな表情を浮かべたツラを近づけてくる。

「何だかぼんやりしてるね、気分が悪かったりする? 休みたいなら肩を貸すよ」

具合の悪そうな人間を放っておけないお節介なお人好しなのか、と思いきや。間近からこちらを見下ろす男の茶色い瞳の奥に、労りとは別種の色、が見え隠れしていた。その視線が、俺の裸の上半身を舐めるように撫でていくのが分かって、鳩尾の辺りに氷の塊を押し込まれたような気分になる。

(下心を隠す気もねぇ、って感じだなこの野郎

男からの誘いを受けるのはこれが初めてってわけじゃない。どういった理由でか、俺を〝ご同類〟と見做して声をかけてくる野郎が時折り現れるのだ。そのこともまた、俺の密かな疑念例の、自分は男とも寝ることができるんじゃないか、というを後押ししているわけだが。ここまで露骨に値踏みの視線を向けられたのは久しぶりで、腹の奥でもぞりと不快感が蠢いた。
同性の目から見ても整った容姿をしているし、肉体も俺よりよっぽど仕上がっているこの野郎は、随分と自分に自信があるらしい。だが、俺にとってはチンピクする余地すらない程度には興味の範疇外に位置していた。俺は感情的にならないように努めながら、肩に載せられている男の手をさり気なく振り払って。

「ちょっと疲れてるだけだ。人と話したい気分じゃねぇから、一人にしてくんない?」

相手を逆上させないように冷たくなり過ぎない口調で、だけどきっぱりと、お前に付き合う気はない、という拒絶の意思表示をしたというのに。目の前の男は俺の素っ気ない態度など気に留めた風もなく、むしろ距離を詰めてきやがった。

「すごいな、こんな綺麗な金髪初めて見るよ」

生温い吐息が耳の近くを撫でていく。気色悪さに肌を粟立てた俺に向けて男の手が伸びてきて、水で濡れている髪の毛に触れようとした、その時だった。

「オイオイオイオイ、ここをハッテン場か何かと勘違いしてやがんのか? テメェあれか、どっかの田舎から出てきたばっかか。田舎モンは知らねぇのかもしれねぇが、ここはなァ、健全な汗を流すための場所なんだぜ? セッッックスしてぇなら他所を当たれよセンズリかき野郎」

ナンパ男の背後に突如現れた大きな人影が、割れんばかりの大声で、とんでもないことを言い放った。俺たちのやりとりに気づいていなかったらしい他の客が何事かとこちらを振り返るような声量と、そのあんまりな言い種に、俺に言い寄ろうとしていた野郎の頭にカッと血の昇る音が聞こえたような気がする。
怒りのままに後ろを振り返った男は、だが、自分の背後に立っていた男の姿を目にした途端言葉を失って立ち尽くした。
まるで電柱みたいな長身のその男は、分厚い筋肉で覆われた見事な身体をしていた。プレス機で押し出されたような分厚い胸筋に、吸い寄せられたように視線が向かってしまう。俺に声をかけてきた野郎の身体も充分に鍛えられていると思ったもんだが、今この状況で見比べると、貧相に見えてくるぐらいにその差は歴然としていた。
自分よりも遥かに鍛えられた肉体を持つ巨漢に、頭上高くからジロリと見下ろされたナンパ野郎は言葉を失いそれから、何も言わずに逃げるように立ち去っちまった。実に賢い選択だろう。
おそらく、並の男では、この男にはフィジカルではもちろんのこと、口喧嘩だって敵わないに違いない。相手を罵倒する言葉ならマシンガンの如く次から次へと飛び出してくるんだから。

って、俺は、何だってそんなことを思ったんだ?)

初対面のはずの相手のことを、まるでよく見知っている人間のように評する自分を不思議に思うよりも先に、青みがかった銀色の瞳と視線がかち合う。その瞬間、俺の中に怒涛のように、古い記憶が流れ込んできた。
デイバン、ロックウェル、CR:5とGD、マフィアのカポの俺、ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテと、ギャングの幹部だったバクシー・クリステンセン。お互いに敵対する組織の重役だったというのに、他の連中の目を盗んで逢うことを身体を重ねることを辞められなかった、馬鹿二人。
まるで映画みたいに流れ込んでくる記憶いや、これは本当に記憶なんだろうか。俺は頭のどこかがイカレちまって、ありえない妄想に囚われているだけなんじゃないのか。

(生まれ変わり、なんてモンが本当にあるのか?)

視界がぐらぐらと揺れるような眩暈に耐えかねて、思わず目を閉じた俺の鼓膜に鋭い響きの声が突き刺さる。

「オイ、さっきの野郎も言ってやがったが、テメェ、具合でも悪いんかよ」
「いやすまねぇ、大丈夫だ。サンキュ、助かったよ」

軽く頭を左右に振って、目を開けた俺は湯船から立ち上がり。立ち上がってもなお、自分の目線より遥か高い位置にある男の顔を見上げて。

「俺はジャンカルロ、だ。恩人の名前を聞いても?」
「大袈裟な野郎だな、こっちは単に公共の場で見境なく盛ってるマスカキ猿が気に食わなかっただけだっつの」

初対面の人間相手に呆れるような口の悪さだ。そう思うのに。ひどく懐かしく感じられる野郎の言い種に、俺は無性に泣きたくなるような気がして。それを必死に堪えながら、軽い口調で応じる。

「受けた恩は倍にして返せって、死んだマンマに言われてるんでね」

死んだマンマ、という単語を耳にした瞬間、相手の表情が少しだけ気まずそうなものになるのが分かって、何だか不思議な気持ちになる。俺の知っている男なら、相手の事情なんて知ったことかと言わんばかりの態度を取りそうなもんなのに。

バクシーだ」

男の口からその名前が出てきた瞬間、心臓が大きく跳ね上がる。妄想や思い込みではなかなか一致しそうにないタイプの、珍しいあの野郎と同じ名前。顔も、体格も、驚くほどよく似ている否、似ている、なんてレベルじゃない、そのものだと言って差し支えないだろう。そして、その逞しい左腕にはあの頃を彷彿とさせるような骸骨の刺青が踊っている。

(けど、あの頃とはデザインが違うしGDのスミもねぇ、んだよな

果たしてこいつにはかつての記憶があるんだろうか。或いは、俺と同様に、目が合った瞬間に記憶が蘇ったりはしなかったんだろうか。

「バクシー、か。ここにはよく来るのか?」
「まぁな」

普通ならここで週に何回ぐらい通っている、とかそんな話になりそうなもんだが、バクシーの返答はひどくあっさりとしていて素っ気ない。よく知らない相手に易々と自分の情報を開示したりはしない、という警戒心のようなものが感じられる。かつてのこの野郎だったら関係のないことまで散々ベラベラ喋ってだけど、肝心なことは何も言わないままこちらを煙に巻いただろう。
あの頃の俺たちは、状況によって共闘することもあったとはいえ、基本的には敵同士だった。敵である俺に自分の情報を掴ませないようにするだけなら口を噤んでいればいい話だが。俺がうっかり口を滑らせて何か情報を漏らすことを期待して、煽るような言動を散々繰り返してたって面もあったんだな、と。今さらのように何せ、百年近くが経っているし、何だったら俺もこいつも既に一度死んでいる思い至って。
今のバクシーにとっては俺から引き出したい情報なんてないから、余計なことも言わないんだろう。そう考えた瞬間、胃の辺りに重たい石でも載せられたような、ひどく息苦しい感覚を覚えた。

(それって、この野郎が俺のことを何も覚えてない、ってことなんじゃねぇのか

俺自身、思い出した記憶はあくまでも断片的なものだし、バクシーが切欠になったからなのか、こいつとの関わりに関する出来事が中心だ。それでも、この男が死んだあとも、それなりの時間をCR:5のカポとして生きたことは何となく覚えている。多忙な日々の合間にふと訪れる空白の時間、幾度も頭の中のこの野郎に答えの返ってこない問いを投げかけていたことも。

(つまりは、頭の中に強烈に残ってる心残りみたいなもんに記憶が引っ張られてるってことなんじゃねぇのかな)

もしもバクシーに俺と同様の記憶があるのなら、この野郎は俺にも記憶があるかどうかを探るためにあれこれと質問を投げかけてくるんじゃないだろうか。だって、かつてのこの野郎が知りたくてたまらないであろうことを、俺は知っている。俺がそのことを知っている、という事実はバクシーにも容易に想像がついているはずだ。

(こいつに記憶があるなら、自分が死んだ後、ボスがイーサンが本当に助かったのかを、確認せずにはいられねぇはず、だろ?)

テメェの命と引き換えにしてまで庇った相手だ。もしも俺がこいつの立場だったら、記憶を取り戻した際には真っ先にそのことを思い出すだろうし、自分のやったことの結末を知りたいと思うんじゃないだろうか。

(それとも、生まれ変わる前の出来事なんて、今さら知ったところで意味はないと、そう、思うだろうか

どちらもありえそうで、判断がつけられない。

チッ」

ぐるぐると考えを巡らせる俺を見下ろしながら、バクシーが舌打ちをした。この野郎は一体何が気に入らないのか、そう思いながら顔を上げる。俺の視線に気づいたバクシーは、無造作に顎をしゃくって出入口の方を指し示した。

「さっきのイボガエル野郎が未練がましくこっち覗いてやがった。あの調子だと外でテメェの帰りを待ち伏せしてやがるかもナァ」
「あぁーあいつ、逃げたかと思ってたわ」

既にその存在をすっかり忘れかけていたナンパ男は、まだ諦め悪く俺のことを狙っているらしかった。あいつに粉をかけられている時には辟易したもんだったが、そのおかげでこうしてバクシーと出会うことができたんだと思うと、少しぐらいは感謝してやってもいいかもしれない。

(いっそ、とことん利用させてもらうかな)

「なぁバクシー、乗りかかった舟ってことで最寄駅まで付き合ってくれねぇ?」
あァ?」

いかにも嫌そうな顔で俺を見下ろしてくるバクシーににっかりと笑いかけながら、提案する。

「このあと予定がないんなら飯に付き合ってくれてもいいんだけど。ボディガード代に奢るぜ?」
「俺を弾除けにしようってのかよ」
「ハハ、いざとなったらこっちが盾にされそうな雰囲気だけどな」
「分かってんじゃねェか」
「やっぱそうかよ。ヒデェ野郎だ」

軽口の応酬をしながら、俺は一歩足を進めて野郎との間にあった距離を詰め、銀色の双眸を下から覗き込む。

「なぁ、どうよ? お前みたいな強面が一緒にいてくれたら、あいつも諦めて素直に帰りそうなもんじゃねぇ?」

俺の内側まで丸裸にしちまいそうな底光りする目つきは昔と変わらない。だが、かつては居心地の悪さを覚えたりもしたその視線が、今はむしろ心地いい。

(ああ、俺はこんなにもお前に飢えてたんだな

そんなことを思いながらへらりと笑いかけると、バクシーがふいと視線を逸らした。

五分だ」
「え?」
「俺ァもう帰るとこだったんでな。五分後にはここを出る。テメェも一緒に来るってなら五分で支度しろや」
「五分はさすがに短すぎねぇ? 俺、いっつも十五分はかかってる気がすんだけど」
「ハァ? 身支度にどんだけ時間かける気だよオンナノコかテメェはよぅ」
「今の時代、そういう言い方してるとすぐにジェンダー警察が駆けつけてくるぜ」
「何て時代だよ、ったく!」

その気になれば支度ぐらい三分でできるところだが、さっきよりもスムーズに流れ出した会話が嬉しくてついつい食い下がっちまう。大袈裟なジェスチャーで天井を仰いだバクシーの姿に、思わず吹き出した俺を銀色の双眸がじろりと睨み下ろした。一見不機嫌そうに見えるが、本音は違うってことを目の色が語っている。こいつも俺との会話を楽しいと思ってくれているんだろうか。そうだったらいいのに。

「なぁ、せめて十分!」
八分だ。それ以上は譲らねぇ」
「オッケー、それで手を打とうじゃねぇか。今から八分てことは
「今が七分だから十五分だな。それを過ぎたら待たねぇぞ」

壁の時計に視線をやった俺の耳に、バクシーの声が低く告げる。

「了解! じゃあまたあとで、入口でな!」

早口でそう告げた俺は大浴場を後にして、更衣室に駆け込んだ。レンタルしたタオルで全身の水気を軽く拭き取ってからまずはパンツに足を通し、ガシガシと雑に髪の毛を拭いたら今度はロッカーから引っ張り出したTシャツを頭から引っ被る。
服を身に着け、ロッカーの中に忘れ物がないかを確認し。最後に自分の身形をチェックしようと覗き込んだ鏡の中、期待に目を煌めかせ、頬を紅潮させた男と視線が合った。あまりにも分かりやすく感情を曝け出した自分のツラにいたたまれない気分になって、思わず掌で顔を覆っちまう。

カッツォ、浮かれすぎだろ

あいつにもギャングだった頃の記憶はあるのか、俺のことを覚えているのか、それを確かめる術なんてちっとも思いつかない。それでも、この奇跡みたいな再会を、失ったら二度と訪れないかもしれないチャンスを逃したくなくて必死な自分を自覚させられて。俺は目を閉じて深呼吸をする。遠い遠い昔に教わった呼吸法を思い出しながら。
頭の中に冷静さが戻ってきたと思えたところで、ふー、と息を吐き出して瞼を押し上げ、壁に掛けられた時計に視線をやる。タイムリミットまではあと二分ほどあった。だが、もしも間に合わなければあの野郎は宣言通り、容赦なく俺を置いて一人で帰ってしまうに違いない。
もう一度鏡に視線を戻し、乱れた髪の毛を手櫛で軽く直してから、俺は更衣室を後にした。逸る気持ちを抑え、余裕のある足取りでエントランスに向かうと、ラウンジソファに腰かけてスマホの画面を眺めているバクシーの姿が視界に飛び込んでくる。
服の上からでも存在感を主張している厚い胸板。持て余しているような長い脚。スマートフォンが子供用の玩具に見えちまうくらいデカい手。長めに伸ばされた前髪の合間から覗く鼻筋。そんなもんに目を奪われて、不自然に心臓がどくんと脈打つ。

(実は俺、意外とこいつの見た目が好きだったんかな

百年目にして知る、己の嗜好ってやつなのか。それとも、ずっと頭の片隅に引っかかってた知りたかった答えを得られないどころか、問うことすらできないまま死に別れた相手に巡り会ったことで、脳が何かしらのバグを起こしちまっているのか。
視界の中、バクシーがスマホに落としていた視線を上げ、俺の方へと顔を向けてくる。真っ直ぐにこちらを射抜くような目つきに、どうやら見られていることに気づいて振り返ったらしいと察して。昔ならもっと早く俺の視線に勘づいただろうに、今のこいつはギャングだった頃よりは平穏な暮らしをしているんだろうな、と、何とも言えない感慨めいたものを噛み締める。

遅ェぞ」
「あーすまねぇ」

時計を確認すると、俺が木偶の坊よろしく突っ立ったままこいつを見つめている間に、約束の時間を二分ほどオーバーしちまっていた。そんなに長いことぼんやりしたまま、ただこの野郎を眺めてたとは。

(傍から見たらヤベェ奴じゃんか)

このエントランスに他の人間がいなくてよかった、と思いながら、俺はバクシーに歩み寄り、もう一度「待たせて悪かったな」と謝罪を口にする。それに対し、バクシーは小さく舌打ちをすると無言でソファから立ち上がり。

「行くぞ」

簡潔にそれだけ言うと、俺に背を向けて出入口へと歩いて行く。その背を追いながら、俺は。

(一秒だって待つつもりはねぇ、みたいな言い種だったくせに、俺が来るまで待っててくれたんだよな

こいつなりに俺の身を案じてくれているんだろうか。自分が先に帰ったことで、一人で帰ることになった俺がさっきの野郎にレイプされたり殺されたりしたら寝覚めが悪い、とか、思っているのかもしれない。

(昔のこいつだったらそんなこと、全然気にしそうにねぇ否、そうでもねぇか?)

他人がどんな目に遭おうが知ったことじゃない、とか言い捨てそうなタイプのくせに、案外面倒見のいいところがあった気がする。この野郎のせいで生命の危機を感じたことは何度もあったが、こいつに命を救われたことだって少なからずあった。何だかんだと理由をつけちゃいたが、見捨てちまった方がこいつにとっては得なんじゃないかと思えるような場面だって、あったってのに。そんな状況で差し伸べられた腕を掴んでいいものかどうか、煮え切らず迷う俺を無理矢理捕まえて引きずっていった、あの力強さを今もまだ覚えている。
バクシーがエントランスの自動ドアを潜る直前、首を捻ってこちらに視線をよこした。目が合うとすぐに前に向き直ったが、俺がちゃんとついてきているか確認したんだろうな、と思うとひどく面映ゆい気がして、俺は無性に大声で叫びたいような気分になる。
バクシーの後に続いてジムの建物から外に出ると、睨むような目つきで路地裏を眺めているバクシーの姿を見つけた。俺が小走りに近寄っていくと、ぬるりと振り返ったバクシーは頭上から俺を見下ろして、低い声で問いかけてくる。

「テメェは何で帰るんだ。地下鉄か?」
「あぁ、Rトレインに乗るつもり」
「だったらそこの駅でいいな。送ってやるからあんまり俺から離れんじゃねぇぞ」
「えっ

俺の答えに小さく頷いたバクシーの言葉に、間抜けな声を上げちまう。このあとは二人でどこかに飯を食いに行こうと考えて、頭の中ではその算段を立ててたってのに。バクシーの口ぶりからは、このまま真っ直ぐ俺を駅まで送って解散しようという意図しか感じ取れない。

(マジかよ

高揚して膨らみきっていた期待が、空気を抜かれた風船みたいにみるみる萎んでいくのが分かった。この機会を逃したら次に会えるのはいつになるかそもそも会えるのかどうかすらも定かじゃないってのに、みすみすチャンスを逃すなんて冗談じゃねぇ。そう、思うのに。
駅に向かって歩き始めたバクシーの隣に並び、俺はできるだけ何気なさそうな口調を心がけながら話しかける。

「あー、その俺、何か食って帰ろうかなと思ってたんだけどさ、お前も付き合わねぇ? さっきも言った通り、奢るぜ」

乗り気じゃなさそうな相手を引き止めてその気にさせるのは、得意な方だと自負している。ただし、女の子が相手だったら、の話だ。女相手には頭を使うまでもなくいくらでもするすると口から出てくる誘い文句が、この男を前にすると泣けるぐらいに揮わない。俺の言葉を聞いたバクシーは、眉間に皺を寄せ、呆れたようなため息を吐き出した。

「いらねぇよ。テメェも今日は大人しく真っ直ぐ帰れ」

いかにも気乗りしない、というその態度に、俺は内心でひどく落ち込む。この野郎は俺と飯を食いたいなんて、微塵も思っちゃいないんだろう。これだけ興味を持たれていないのであれば、やっぱりこいつには何の記憶も残されていないのかもしれない。バクシーに当時の記憶がないのであれば、あの時俺が知りたかった答えを得ることだってできやしないんだ。
このまま、もう二度と顔を合わせず、こいつのことも前世の記憶なんてもんも、全部忘れて生きていくべきなのかもしれない
そんな風に考えた瞬間、ずきりと胸が痛んで、俺は思わず俯いた。自分の爪先を眺めながらとぼとぼと歩いていると、頭上からもう一度、大きなため息が降ってくる。

「オイ」

何だ、と返事をするよりも先に腕を掴まれてグイッと引き寄せられる。驚いて上を振り仰いだ俺に、バクシーが顔を近づけて覗き込んできた。

「さっきジムにいた時も思ったけどな、テメェ顔色が悪ィんだよ。飯も大事だが今のテメェに必要なのはどう見たって睡眠だ、睡眠。分かったらとっとと帰って寝ろ」

確かに、無理してジム通いをしている自覚は充分すぎるぐらいにあった。もう少ししたら繁忙期が終わるんだから、それからにした方がいいんじゃないのか、という気持ちもあった。それでも、思いついたら即行動したくなっちまうのが俺の長所でもあり短所でもあって。そうして無理を重ねた結果、うっかり隙を作って面倒な男に付け込まれかけたわけだ。
俺の様子を検分するように鈍く光る銀色の双眸には、これといって俺を案じたり労わったりするような色は浮かんでいない。それでも、俺には分かった分かっちまった。言葉にも態度にも絶対に表すことのないこの野郎の、素直じゃない気遣いって奴が自分に向けられていることが。
この野郎が、出会って間もない俺のことを心配してくれてるってのは正直意外ではあるが。

(平和な時代に生まれて、少しは人間が丸くなったのか或いは、多少なりとも昔の記憶が残っているのか)

そう思ってから、すとん、と何かが腑に落ちた。記憶があろうがなかろうがどっちだっていい。ただ俺は、今のこの男のことを知りたいと、そう、思って。

「ありがとな、バクシー」
何だ、急に」

頭に浮かんだ言葉を口にすると、途端に目の前のバクシーが渋面を作る。テメェのために言ったんじゃねぇ、と今にも言い出しそうなそのツラがあまりにも〝らしく〟って、俺は反射的に吹き出していた。俺の反応に揶揄われた、とでも思ったのか、不機嫌そうな表情で踵を返したバクシーは、再び駅に向かって歩き始める。その背中を追いかけ、隣に並んで歩きながら。

「忠告通り、今日は素直に帰るよ」
「おー、そーすれ」
「体調が万全になったら、改めて飯奢らせてくれるだろ?」

首だけ捻ってこちらに顔を向け、眉をひそめて無言を返してくるバクシーの顔を下から覗き込むように見つめ返す。銀色の瞳が一瞬だけ、迷うように揺れるのが見えた。嫌がってるってわけじゃなさそうだ。俺にはその反応だけで充分だった。ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出し、野郎が断り文句を口にするよりも先に仕掛ける。

「連絡先、教えてくれよ。トークアプリは何使ってる? WhatsApp? Snapchat? Facebook Messenger?」

にっこり笑いかけながら矢継ぎ早に問いかけると、バクシーはうんざりしたような表情を浮かべて天を仰いだ。

「アー、知ってるワ。こういうツラした野郎は諦めが悪ィんだ脅しても全然引き下がんねェんだよナァ」
「ハハ、分かってんじゃねぇか。ほれ、はよう」
「俺、箱入りだから電話とか持ってなくってよぅ」
「嘘ついてんじゃねぇよ。さっき使ってんの見たし。つーかスマホがなかったらあのジムの認証どうやって通ってんだよ」
「ウゥーーープス

ハァ、と大きなため息をついたバクシーはポケットに手を突っ込むと、さっきもジムのエントランスで使っていたスマートフォンを取り出す。ロックを外すと難しい顔で画面を数回タップし、QRコードの表示された画面を俺に向けてきた。野郎の気が変わらないうちにと急いでそれを自分のスマホで読み取った俺は、表示された連絡先を何も考えずに追加する。
無事に登録された連絡先を感慨深く眺めていると、バクシーの名前の隣に並ぶアイコンにふと目が留まった。金と青、色違いの瞳が印象的な真っ白な猫。前世でバクシーが飼っていたバクシーが撮ったっていう、その猫の写真を何枚も見せられたことがあるし、連れているところを見たこともあるから、俺が勝手にそう思っていただけなんだが猫によく似た姿に、一瞬息が詰まる。

「ねこ
「おー、可愛いべ? たまに近所で見かけるんだわ」
お前の猫じゃねぇ、のか」
「今の家で飼うのは難しいんでなァ」
「そっか

こいつ、あの猫に似てるよな、と。そんな言葉が喉の奥、すぐそこまで込み上げてきて。でも、結局何も言えないまま、俺は画面を閉じた。駅はもうすぐそこ通りを一本渡ったところに地下への階段が見えている。

「じゃあ、マジで連絡するからな」
好きにしろ」

ポケットにスマホを戻しながら、隣を歩く電柱野郎にそう告げると素っ気ない返事が返ってきた。だけど、その返答の前に生まれた数秒の空白野郎の歩くリズムが半拍ズレた、その事実だけで、俺は満足だった。きっとこの野郎は俺からのメッセージを無視しない、という確信めいた感覚に俺は口許を緩める。
改札の前での別れ際、バクシーの指先がわずかに揺れたのが分かった。触れられたわけでもないのに、何かに迷うようなその動きだけで、こいつが俺に何か言おうとしてでも、結局言葉にしなかったんだ、と分かっちまった俺は。野郎に背を向け、改札を通り抜けながら、口の中で小さく呟いた。

「百年分のツケは払ってもらうぜ、電柱野郎」

記憶があろうと、なかろうと。