2025年イヴァン誕生祝SS。恋愛感情があろうとなかろうと、親友であり相棒でありファミーリアであることは変わらない二人。

余熱は冷めない

6,195文字 / 約7分
   文字サイズ:

一二月二二日の夜。日付が変わるまでにはあと二時間ほどあろうか、という時間帯にCR:5本部の厨房に姿を現したジャンは、キッチンの隅に置かれた小さな木の箱に目を止めた。箱の上に目隠しのように掛けられているクロスを持ち上げると、そこには小麦粉とラード、清潔なさらしと何かの型のようなものがいくつか。それから整然とした文字が書かれたメモのようなものが入っている。メモに目を通したジャンは満足そうに頷き、持ってきたエプロンを身に着けるとシャツの袖を捲った。

「よっしゃ、やりますか」

料理長の書いたメモレシピと睨めっこをしながら小麦粉を計量し、ひとつまみの塩を合わせる。鼻歌を歌いながら手早く空気を含ませるように粉を掻き混ぜたジャンは、そこに小さく千切ったラードを加えた。脂の塊を手の熱で溶かすようにしながら優しく潰して、粉と混ぜ合わせていく。

「そぼろ状、ってこんな感じでいいのか?」

レシピに書かれた一文に少しだけ悩み、ぱらぱらとした手触りを確認するように指先を小さく擦り合わせて。

「んー、マ、こんなもんだろ」

軽く頷いたジャンは、捏ねた粉に水を少しずつ注いでいく。触れた指先がジン、と沁みるほどに冷たい水だ。粘り気が出ないよう、寄せるように生地を纏めていく手つきは、壊れ物を扱うかのようにひどく慎重だ。そうして纏め上げた生地をさらしに包むと、ジャンはそこでようやくひと息ついたように肩を落とした。

「冷蔵庫じゃなくパントリーの棚で休ませろ、か」

レシピの指示に従って、木製のパントリーの棚に生地をそっと置く。それから軽く肩を上げ、肩甲骨を中心にぐるりと回して肩の周りの筋肉を解し。ジャンは弾むような足取りで冷蔵庫に近寄った。コンプレッサーの低く唸る音が響いてくる箱の重たい扉を開くと、ひやりとした冷気が流れ出てくる。
視線を動かしたジャンは、上方の棚の片隅に置かれている瓶の姿を捉えた。瓶の首には黄色い糸がひと巻きされており、そこに『G』と書かれた紙の札がぶら下がっている。たまに自ら厨房に立つカポによる、『俺のものだから触るな』という合図だ。昨夜、最後に確認した時と寸分違わぬ位置に置かれたその瓶を見てジャンは満足そうに笑い、手を伸ばしてそれを取り出す。
瓶を顔の高さに持ち上げたジャンは、そのまま軽く揺すってガラス越しにとろりと崩れる中身の様子をチェックした。冷蔵庫に入れた際にはやや明るめの茶色だったフィリングは、こっくりとした深い茶色に変化している。満足そうに金色の双眸を細めたジャンは、ねじ込み式の金属蓋に手をかけて力を込めた。きゅぽん、という可愛らしい音のあと、甘い香りがふわりと立ち上る。

「んー、いい匂い」

鼻をくすぐるフィリングの香りに目を細めてジャンはにんまりと微笑む。昨日の同じ時間帯にジャンが仕込んだミンスパイのフィリングは、一晩寝かせたことでスパイスの香りが丸く一体化し、出来立ての時には生臭いようにも感じられたラードが全体に馴染んで馥郁とした香りを放っていた。

「ちょっとだけ味見するだけ、な」

いたずらっぽく呟いたジャンは、近くの棚に置いてあったスプーンを手に取り、瓶の中に挿し込む。抵抗なくするりと沈んでいく銀色の匙に、ジャンは少しだけ眉尻を下げた。

「もっともったりしたペースト状になるって聞いてたけどやっぱ一晩じゃ時間が足りねぇか

保存食でもあるミンスパイは、時間をかけて寝かせることで熟成してよりリッチな味わいになる、と料理長からは言われていた。できれば二晩、最低でも三晩は寝かせるのが理想だ、と。だが残念ながら年末のこの忙しい時期、一晩寝かせる時間が取れただけでも奇跡のようなものだった。ジャンの事情を知った料理長が代わりに作るという提案もしてくれたのだが。

(できれば全部自分で作りたい、ってのは俺の単なる自己満足だったよなぁ

それでも、やはり料理長に任せればよかった、とは思わない。まだ少し形の残っている具をスプーンで潰しながら、全体が均一になるようにゆっくりと掻き混ぜる。

「愛情だけは込めてあるから勘弁しろよな、イヴァン」

部下であり親友である男の顔を思い浮かべながらそう呟いて、ジャンはスプーンを口に運んだ。舌の上で甘さを帯びた酸味が蕩け、シナモンとクローブの香りが後から追いかけてくる。

やっべ、うんめぇわコレ」

スプーンをねっとりと舌で舐め取ったジャンは名残惜しそうに瓶の中身を見下ろしてだが、ぎゅっと両の目を閉じると瓶の蓋を急いで閉める。

「危ねぇ危ねぇうっかりしてたら全部食っちまうとこだぜ」

笑う声には少しばかりの安堵寝かせた時間は一晩だけでも、充分においしくできていることへのが滲んでいる。蓋を閉める際に指についたフィリングを舌の先で舐め取りながら。

「さって、型の準備でもしておきますか」

独り言ちたジャンは、料理長が準備してくれていた木箱の中から小さなパイ型を取り出した。四つほど用意されていたそれに、少しだけ指先に取ったラードを体温で溶かしながら薄く塗り広げていく。あまり厚く塗るとパイにラードの匂いが移って風味が悪くなる、と料理長から聞かされているので、あくまでも慎重に。

「ふぅ

思いがけず時間がかかったが、型の下準備を無事に終えたジャンは、次に生地を伸ばす準備に取り掛かる。麺棒をアルコールで拭いてから更に乾拭きをし、打ち粉を入れた小皿を冷却用の石台の横にセットして。

「あ、やべ、オーブンをあっためんの忘れてた」

業務用のガスオーブンは、温めるだけならば十分もあれば事足りる。だが、温度を安定させるためにその倍ぐらいの時間をかけた方がいい、と聞かされていたことを思い出し。ジャンは慌ててガスオーブンに駆け寄ると、200度に設定して点火する。ボッという低い着火音が響いて、仄かなガスの臭いが辺りに漂った。扉越しにじわじわと熱を発し始めるオーブンの前に立ったまま、ジャンは指を顎に当てて先ほど読んだメモの内容を思い返す。

「あとはそうか、エッグウォッシュ用の卵か」

冷蔵庫から卵を取り出して小さなガラスボウルに割り入れる。

「やーべぇ、こんな時間に卵割るとか、何かどちゃくそ悪いコになった気分だぜ」

密やかな声で歌うように囁きながら、ジャンは軽快な音を立てて卵を溶いていく。その時、ふと、以前にイヴァンが何気なく語っていた言葉が記憶の片隅から蘇ってきた。

(卵は高級品だから、イヴァンのお袋さんは卵を水で伸ばして使ってた、って言ってたよな

ミンスパイを作ろうと思ったのは、イヴァンが以前に語った子供時代の思い出の中で、クリスマスの楽しみの一つとして登場したのを覚えていたからだった。料理人に相談して、できるだけイヴァンの思い出の味に近くなるようにと考えてもらったレシピをジャンはじっと眺める。しばらくの間悩みに悩んで。結局、ジャンは卵を水で伸ばすことをやめた。料理はトータルのバランスがものを言うのだから、一点だけを寄せてみたところで味が近くなるとは限らない。

「どっちにしろ、お袋さんの味には敵わねぇだろうしなぁ」

そんなことを呟いてジャンは小さく微笑んだ。脳裡に思い起こすのは、自分が子供の頃に食べていたシスターお手製の菓子の素朴な味だ。現在の立場になってからは贅沢なドルチェを好きなだけ食べることもできるようになったジャンだが。孤児院の古びたオーブンの前で、他の子供たちと焼き上がりを待っていた時のあの高揚感は大人になった今でも否、大人になったからこそ、何にも代えがたいと、そう思う。

「さーて、うちの子はそろそろお目覚めの時間かな?」

言いながら、ジャンはパントリーの棚で寝かせていた生地にさらし越しに触れてみる。ほんのりと冷たい生地の表面に指の腹が柔らかく沈んで微かに丸い跡を残した。

「よしよし、これなら綺麗に伸びんだろ」

さらしに包まれていた生地をそっと取り出すと、打ち粉を撒いた冷たい石台の上に置く。目分量で八つに分割した生地をそれぞれ軽く丸め、台の上に並べていった。掌で軽く押すように生地を転がすと、外側に向かってゆっくりと広がっていく。冷えた生地は少しの抵抗感を感じさせたが、じわりと伸びていく感触が心地よかった。

「おっしゃ、いい感じ」

生地の表面にも軽く打ち粉を振ると、用意しておいた麺棒を手に取って中心から外側へゆっくりと転がす。じんわりと伸びていく生地は、硬さはあるがうっかり力を込めすぎると裂けてしまいそうな脆さもあった。慎重に麺棒を往復させて生地を伸ばしていくと、中央にはふんわりとした厚みを残しつつ、端は薄く広がった状態になる。伸ばした生地を破かないよう慎重に持ち上げ、先ほどラードを塗った型に入れると、指先で優しく押さえながら寸法を調整した。底も側面も、丁寧に生地を押し込んで型に沿うように密着させる。
残りの生地も同じ要領で伸ばし、その半分を型に納めると、ジャンは満足そうにひとつ息を吐いた。それから、先ほど味見をしたフィリングの瓶の蓋を開けると、新しいスプーンを瓶の中に挿し入れる。
先ほどよりも少しだけねっとりとした感触が増したように思えるフィリングを掬って、型の中央にそっと置いていく。それぞれの型の縁いっぱい、ギリギリに収まるように丁寧に盛られたフィリングは、柔らかいが程よく纏まっていて、崩れる心配はしなくて良さそうだった。

「やるな俺、バッチリじゃねぇか」

にんまりと笑ったジャンは、今度は上面用に伸ばした生地を石の台に並べていく。それから手に取った小さな抜き型星の形をしたそれを、表面に軽く押し当てた。型が生地を切り抜く手応えと、石の台に接触する音が静かな厨房に響く。
全ての生地を型で抜き終えると、ジャンはそれをフィリングを載せた型の上にそうっと被せた。端を下の生地に沿わせながら密着させ、指先で軽く押さえて空気を抜く。余った端の部分は、型に沿わせて折り込んだ。生地に空いた星形の穴は見た目の可愛らしさだけでなく、蒸気穴の役割も果たしてくれるはずだった。
四つの型を天板に並べ、先ほど溶いておいた卵を生地の表面に、ムラのないように満遍なく丁寧に塗っていく。刷毛の毛先に少しだけ含ませた卵液を、ボウルの縁で更に扱き落として、生地の表面に傷を入れないよう慎重な手つきで。

「あとは焼くだけ、だな」

蜂蜜色の瞳を満足そうに細め、ジャンは天板の上に整列する小さなミンスパイたちを見下ろした。扉越しの輻射熱で厨房内をじんわりと暖めているオーブンは、パイが投入されるのを今か今かと待ち構えている。扉を開けるとオーブン内の熱気が一気に外へと流れ出て、熱風がジャンの顔や手を撫でていった。
パイを並べた天板を庫内に押し入れて扉を閉めると、小さな覗き窓から中の様子を窺う。生地に開けた星形の穴の隙間から覗くフィリングが、ガスの輻射熱に炙られて少しずつ膨らんでいく姿をジャンはじっと見守っていた。

(成功、してくれよ

十分ほどの時間が経過すると、上面の生地は黄金色に色づき始め、星形の穴から湯気が立ち上る様子が確認できた。漂う香りはいっそう甘さを帯び、クローブとシナモンが嗅覚を刺激する。そのまま三分ほど待ってから、ジャンはオーブンの扉をそっと開けた。ミトンを手に嵌め、天板を引き出して、冷却用の石台に移す。パイから立ち上った甘い香りの湯気に目許を緩め、ジャンは小さく微笑んだ。
粗熱が取れるのを待つ間にラッピングの準備をしようと、持ち込んだバッグからジャンは用意していた包装紙とリボンを取り出した。まだ湯気の立つミンスパイと見比べながら、どのように包もうかと一つに纏めるか、個別に包装するか頭を悩ませる。
幾つかのパターンを考え、頭の中でシミュレートを繰り返すうち、ふとあることを思いついた。身を翻したジャンは、先ほど生地を寝かせていたパントリーの棚の上段へ手を伸ばす。
ジャンが棚から取り出したのは、厨房に常備されている焼き菓子用の耐油紙だった。それを手に石台の前へと戻ると、ミンスパイから立ち上っていた湯気はすっかりと収まっていた。黄金色に輝く表面にそっと指先で触れてみると、仄かな温もりだけが伝わってくる。
ジャンは形を崩さないよう慎重な手つきで型からパイを外すと、耐油紙で一つずつ包んでいった。紙の端を軽く折って中身が飛び出さないように処理してから、四つのパイを並べて緑色の包装紙で包む。底を折り込み角を揃え、綺麗に形を整えてからぐるりと金色のリボンを十字にかけた。
最後に中央でリボンを結ぶと、余った部分をナイフの背と指の腹で挟んで軽く引っ張る。リボンの端がくるりとご機嫌に丸まったのを見て、ジャンは満足そうな笑いを漏らした。

◇ ◇ ◇

日付が変わってしばらく経った頃。ようやく自室に帰ってくることのできたイヴァンは後ろ手にドアを閉め、大きなため息をひとつ零す。先ほどまで一緒にいた部下のアルから祝いの言葉を告げられたことで、今日が自分の誕生日であったことに気づかされた。だが、今年も例年通り暢気に誕生日を祝っている暇はない。明日日付的には既に今日になっているがも朝から予定がギッチリと詰め込まれていた。

「ファック毎年のことながら、誕生日もクソもねぇぞこんちくしょうめ

ぼやきながら室内を見渡したイヴァンの神経を、何かが小さく引っ掻いた。

?」

朝、部屋を出た時の風景とは何かが違っている、と警鐘を鳴らす理性の声に従って、ゆっくりとデスクに近づいていく。その中央に置かれたものを目にした瞬間、イヴァンの足がぴたりと停まった。緑色の包装紙に包まれ、金色のリボンをかけられた〝何か〟がそこにはあった。

「何じゃぁ、こりゃぁ

低く呟いて、イヴァンは室内に視線を走らせる。不審者が侵入した痕跡はない。そうなれば、相手は一人しかいなかった。
大股にデスクに歩み寄ると、くるりと丸まった金色のリボンを見てイヴァンは眉を顰めた。まるで誰かを彷彿とさせるような愛嬌たっぷりのそれを、指先でそっと引っ張ってみる。するりとリボンが解けるのに合わせて紙の擦れる音がした。ずれた合わせ目の隙間から漏れ出した微かな香りがイヴァンの鼻を記憶をくすぐる。

(ミンスパイ、か

貧しかった子供時代の、数少ない楽しみ。だが、もうここ何年も口にした覚えはなかった、それ。イヴァンは目を閉じて、もう一度その香りを吸った。隈の浮き出るくたびれた顔、眉間の皺がふと緩む。
緑色の包み紙を開けると薄い紙に包まれた小さなパイが一つ、転がり出てきた。それをそっと手に取ると、見た目の印象よりもずっしりと重たい手応えに、モスグレーの瞳がやんわりと細められる。
薄い紙をそっと剥がして口許に運び、大きな口でがぶり、噛み付く。口の中いっぱいに広がる、ラムの香りが残るレーズンの甘みとリンゴの爽やかな酸味。そして鼻をくすぐるシナモンとクローブの芳香。子供の頃のイヴァンが食べていたそれよりも、少しだけ贅沢な味わい。それなのに〝懐かしい〟と思わせるのは、きっと。

あったけぇ」

ひと言、呟いて。オーブンの熱など欠片も残っていないはずのそれを噛み締める。
揺れる瞳でイヴァンは金色のリボンを眺め、口の中の甘酸っぱい愛情を、惜しみながら飲み込んだ。