カポジャンさんとバクシーと猫の話。ギャグ。公式にひょんさんがいることのありがたさをいつも噛み締めている

Cat*astrophe

11,214文字 / 約13分
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丸テーブルが二、三脚置いてあるだけの、小ぢんまりとしたオープンカフェのテラス席。俺は濃い目のエスプレッソが満たされたカップで冷えた手を温めながら、それを口許に運んでひと口啜った。

ーーー」

身体中に沁み渡るような温もりとカフェインの刺激。思わずオッサンみたいな声が出たが、どうせ聞いてる人間なんていないんだからいいだろう。
灰色の雲の合間から零れた陽光はほんのりとあったかくて眠気を誘う。今日は風がほとんどないのも功を奏していた。だけど生憎と、俺の執務机にはまだ山積みの書類が残されているはずだった。この一杯を飲み終えたら本部に戻ってそいつらをやっつけなくてはならない。
通りに視線を遣ると、店の周辺の木立の陰に散らばった護衛の姿が見えた。

(車で待ってていい、っつったのになぁ

一人の時間が欲しくて店に寄ったのに、護衛をぞろぞろ連れてたんじゃ本末転倒だってのは俺の理屈なわけで。連中からしたら、俺本人が構わないと言ったとしても、目を離すわけにはいかないんだろう。
待たせている相手がいるとなると、あまりのんびりコーヒータイムを楽しむ気分にもなれない。ルキーノやジュリオみたいにお育ちのいい連中は下の人間を待たせることを当然みたいに受け止めてる節があるが、根っから小市民の俺としてはどうにも落ち着かなかった。

「はぁ

やるせない気持ちでエスプレッソをもうひと口。まだ雪の残る道路や道行く人の流れを見るともなしに眺めていると、一匹の猫が目に入った。カフェの向かいの雑貨屋の横に積まれた木箱の上。太陽の光が差し込んでできた陽だまりの中で寝転がっている。表情は見えないが、いかにも気持ちのよさそうなその姿に、俺は。

「猫はいいよなぁ俺もなりてぇよ」

我知らず、そんな呟きを漏らしていた。誰だってそんな風に感じたことぐらいあるだろう。自分よりも恵まれているように見える存在に成り代わりたい。それが現実のものになるはずもないことは分かりきっている。分かっているからこそ、無責任に願うのだとも言える。
そう。現実になるはずなど、なかったってのに。

「ぷい、むきゅ」

どこかで鳴き声がした。あぁ、あいつの声だ、と。あの、碌でもねぇことばかり仕出かす謎生物の声だ、と。理性が頭の片隅で囁く。こいつはやべぇことになるぞ、と思うのと、ほぼ同時。
ぐらり、眩暈がして、俺の意識はすっ飛ばされていた。

◇ ◇ ◇

まるで二日酔いか船に乗ってる時みたいに頭の中身を揺らされてるような感覚がする。目を開けると目の前にはテーブルの脚。何だこれ、と思うよりも先に鼻先を掠めていったコーヒーの香りで、俺は状況を思い出した。

(そうだ、本部に戻る前にカフェに寄ったんだった)

コーヒーを飲んでるうちに寝落ちて椅子に寝そべっちまってたんだろうか。いくら俺が暢気だからって、さすがにそんなうっかりをそうそうやらかすはずはないと思うんだが。そんなことを考えながら身を起こそうとした俺は、すぐに異変に気付いた。
椅子の座面がやけに広々としてる。テーブルの天板が遠い。上半身を起こしても一向に視界に入ってこないテーブルの上に手をつこうと腕を伸ばした俺は、視界に入ったものに動きをピタリと停めた。
陽の光に透けて金色に輝く毛並みに覆われたそれは、明らかに。

「ニャーー!?」

俺の腕じゃねぇ、と。そう叫んだつもりだった。なのに、俺の喉から飛び出した絶叫は、どこからどう聞いても猫の鳴き声でしかなかった。
驚きのあまり飛び上がった身体は思わぬ跳躍力を発揮する。そのまま椅子から飛び降りた俺はストン、と地面に降り立っていた。四つの脚が地面の感触を捉える。頭で考える間もなく、当たり前のように動く四肢。背中の後ろっ側では尻尾がピン、と立って毛を逆立ててるのが見えないのに感覚で分かった。
間近に感じる濡れた石畳の臭い。それを蹴りたてて駆け寄ってくる、慌てたようないくつもの足音。音よりも振動の方が強く感じられるそれは、俺の護衛たちの発するものだった。

「カポはどこだ!?」
「さっきまで確かにそこに座っていらしたはずなのに
「おい、ここに座っていた金髪の紳士はどこに?」
「そこにいらっしゃらないのであれば、もう出て行かれたのでは
「そんなわけがあるか! カップの中身はほとんど減っていないんだぞ」

状況を確認し合う声。店員を誰何する声。強面の黒服に詰め寄られて怯えているような店員の声。ここのカフェは先払い方式だし、客の動向にそこまで細かく気を配ってるはずもない。ずっと俺を見ていたはずの護衛たちすら気づかなかったものに、店員が気づいている可能性は低いだろう。

「ニャー」

俺はここにいるぞ、あんまりカタギさんを怯えさせてやるなよ、と。思わず声を発したが、口から出てきたのはやっぱり猫のそれでしかない。弾かれたように振り返った黒服どもの視線が、一斉に俺を捉えた。

「猫? 何でこんなとこに?」
「知るか、そんなことよりカポを探せ!」
「お姿が見えなくなってからそんなに時間は経ってない、まだ近くにいらっしゃるはずだ!!」
「ニャーーーー!」

だから俺はここにいるんだっつーの、お前ら仮にも俺の護衛だっていうなら気づけよ。なんて、我ながら無茶ぶりがすぎると思いながらも抗議の鳴き声を上げてはみたが。部下たちは俺をチラリと見ただけですぐに興味を失って、店から駆け出て行ってしまう。

「あぁダメダメ、うちにはお前にやれるようなものはないよ。ホラ、出て行きな」

薄情者どもの背中をしょんぼりと見送る俺には別方向からの声がかけられた。言葉と同時に箒で払うように追い立てられる。人間だった頃には単なる掃除道具に過ぎなかった物に、思いもかけない強い風圧で威嚇されて、俺の身体は反射的にその場から逃げ出していた。
石畳を前脚が力強く抑えつけたかと思うと、次の瞬間にはびっくりするほど前方に身体が跳んでいく。景色が風を切るみたいに流れて全身の毛をそよがせた。地面にまだ残る雪をうっかり踏んづけてもそんなに冷たさを感じない。

(ああ、俺、本当に猫になっちまってんだな

人間だった頃には想像もつかないような身軽さで路地に飛び込んで、背後をそっと振り返る。俺が座っていたテーブルに、ポツンと残された白いカップ。さっき俺を箒で追い払った店員が、それをトレイに載せて下げようとしていた。あれを飲む人間はもういなくなってしまった、と判断されたんだろう。その光景に、何故だかふと胸を絞めつけられたような心地になった。

(これからどうしようか

石畳の上に置かれた自分の前足をじっと見下ろしながら、考える。これまでの経験から判断するに、時間が経てば人間に戻れる確率はそう低くないはずだった。ただ、それが〝いつ〟になるのかはさっぱり分からない。

(さすがに一年後ってことはねぇと思うが

二、三日はこの姿のまま、というのは十分にありえるし、それがどれだけとんでもない事態なのかはこの数分の間で嫌というほどに知れていた。

まずは本部に戻ってみるかな)

俺の姿が消えたという連絡は、既に本部にも入っていることだろう。さっきの護衛たちにはあっさりと見捨てられちまったが、付き合いの長い連中の中には気づいてくれる奴がいるかもしれない。

(ベルナルドにルキーノは頭が固いとこあるから無理かもしれねぇけどイヴァンあいつも案外常識人なんだよなぁ

家族同然の野郎どものツラを思い浮かべる俺の脳裡に、一人の美青年の顔がポンと浮かび上がった。

(そうだ、ジュリオ。ジュリオならいけんだろ)

見た目、知識、能力。あらゆる意味で人間離れした規格外の男。俺の守護天使。あいつなら俺がどんな姿になっても気づいてくれる気がする。
自分の思いつきに、尻尾がゆらりとご機嫌に揺れるのが分かった。顔を上げると、見慣れてるはずなのにいつもとは全然違う顔をした景色が並んでいる。無意識にひくりと鼻を蠢かしながら視線を巡らせて、方角を確認し。

(本部はあっちだな)

◇ ◇ ◇

意気揚々と歩き出すこと数分。俺は既に自分の無謀を悟っていた。

(道路が渡れねぇ、人間が邪魔、本部、遠い

さっきまでほんの数歩で渡れていたような道路が、まるで大河のように広い。そこを車が我が物顔で走り抜けていくもんだから、どのタイミングで渡ればいいのかが今の俺にはさっぱり掴めなかった。通りを行き交う人間は足元なんて見ちゃいねぇ。油断してるとうっかり誰かに蹴り飛ばされそうで、ほんの少しも気が抜けない。
何よりの問題は、といえば。ここから本部までは車で二〇分ほどの距離のはずだが、それが今の俺には途方もなく遠かった。

(車で二〇分て、この身体だとどんだけかかるんだ?)

通りに面した店と店の隙間に挟まるようにして、俺は本部のある方角をじっと眺めながら考える。だが、どれだけ考えたところで分かるはずはない。仮に分かったところで、問題の解決になりはしなかった。
前を向いていたはずの頭は重みに耐えかねたように段々と下がっていく。気づいた時には地面すれすれに顔を伏せるような体勢になっちまってた。

「あーねこだー!」
「ほんとだー! きらきら!」

ぱたぱたと軽い足音が聞こえたかと思ったら、目の前の地面に影が差す。思わず視線を上げると、俺を覗き込むように身を屈めた小さな子供が二人。

「おめめもきんいろ!」
「ぴかぴか、かわいいねぇ」

はしゃいだ声を上げながら、競うように子供たちの腕が俺の方へと伸びてくる。期待と興奮に目を輝かせた無邪気な子供。いつもの俺なら単純に可愛いと、そう思って微笑ましく眺めている存在。だけど、小さなはずの四つの手は、今の俺にとっては十分すぎるほどに大きい。それが四方から俺を狙う様は、まるでヨグ=ソトースの触手を思わせた。
捕まったら最後、俺が俺でなくなってしまうんじゃないかという根源的な恐怖に全身の毛がぶわっと膨らむ。

「シギャー!!」

口から何とも名状しがたい叫びが飛び出した。怯んだ子供たちの動きが一瞬停まる。その隙に、俺は建物の隙間から飛び出して二人の脚の間をすり抜け、通りを闇雲に走り出す。
向かう先なんてもんは、もうすっかり頭の中からすっぽ抜けちまっていた。

◇ ◇ ◇

ャッ」

とにかく人のいない方へと、それだけを目安に通りを走り抜けること数分。体力の限界が来た俺は脚を停めようとしてそれよりも先に、道端に置かれていたポリバケツに衝突して弾き飛ばされた。
蓋の隙間から漏れ出る臭いに無意識に鼻が動くのを止められない。今の俺の体当たり如きではビクともしなかったこのバケツには、どうやら近所の集合住宅から出た生ゴミが詰まってるらしかった。
恨めしい気持ちでそいつを睨みつけてから辺りを見回した俺は、そこで初めて自分が今どこにいるのかさっぱり見当がつかないことに気づかされる。

(ここ、どこだ?)

生まれ育った街だとはいえ、さすがに通りの全てを知っているってわけにはいかない。普段とは視線の高さが違っているせいか、スケール感が掴みにくいことも影響していた。

「ニィ

自分の口から何とも情けない声が漏れるのが分かった。ガキの頃からホーボーやって暮らしてきた身だ。初めての土地をうろつくことを怖いとか心細いなんて思ったこともなかった。その俺が今、自分のシマで、進退窮まって途方に暮れている。情けないことこの上ねぇ。
空を見上げるといつの間にか陽が沈みかけていた。灰色の空を染めるオレンジの光を見上げながら、もう一度ため息をひとつ。零そうとした、その時だった。

いきなり背後から首根っこを引っ掴まれて持ち上げられる。驚きに発した声は途中で詰まって途切れた。

(何だ、何だ!!?)

どういう仕組みなのか、首筋を掴まれた途端に全身の力がスゥッと抜けちまった。ぷらん、と重力に従ってぶら下がる四肢を動かすこともできず、心の中だけで慌てふためく。足音も気配も、何もなかった。今の俺の耳は人間の頃よりも随分と鋭敏で、ちょっとした物音にもすぐに反応するはずなのに、だ。
持ち上げられた身体がクイ、と半回転させられて、目の前に人間の顔が現れた。自分の目線よりちょっと上に掲げられた俺の身体を下から覗き込んでくる銀色の双眸。どこか爬虫類を思わせるその目つきに、脱力してた全身が反射的に硬直する。

(バクシー・クリステンセン!?)

GDの殺し屋が何でこんなところに、という疑問と同時に半端ない危機感が怒涛のように押し寄せてくる。

(やばいやばいやばい!!)

自分のシマに殺戮兵器みたいな野郎の侵入を許しちまってた事実が判明したことは、もちろん、まずい。それ以上に、現在この男の手中に自分が取っ捕まっているという現実がどうしようもなくやばかった。
この野郎が今の俺を見て、CR:5の二代目カポ・ジャンカルロだと看破できるはずはない。多分、ただの野良猫だと思ってることだろう。だが、この野郎は虫けらの脚を捥ぐような気軽さで人間を殺せる男だ。そんな野郎が無力な小動物をどんな目に遭わせるかなんて、想像もしたくなかった。
俺の様子を検分するみたいに細められた、研ぎ澄まされた刃物みたいに光る眼を前にして。暴れることもできずに俺は小さく身を震わせる。

「お、タマタマがついてる。オトコノコかぁ」
ャーーー!!」

(どこを見てんだこの野郎!)

思わず振り回した手足はバクシーを掠りもせずに宙を空打った。

「オゥ、元気じゃねぇか。しょぼくれてっからどっか怪我してんのかと思ったけどそういうわけじゃなさそうだナァ。そこのポリバケツにずいぶんと興味があるみてぇだったがよぅ、オメー腹減ってんのけ?」

(アホか、残飯になんか興味ねぇよ!)

心の中ではそう応じたってのに、身体は俺を裏切って盛大に腹の虫を鳴かせた。自分にまで裏切られるなんてあんまりだ、という気分で俺はがっくりと項垂れ、屈辱に身体を震わせる。

「さっきからちょいちょい震えてんな。寒いんか? とりあえずここにでも入ってろや」
「ミヤゥッ!?」

着ていたコートの前を開けたバクシーに、狭苦しい場所に突っ込まれて思わず声が上がった。半ばパニックになりながら暴れる俺の身体が布越しに宥めるように撫でられる。

(あったけぇ

妙に落ち着いた気分になって改めて状況を確認する。どうやら俺は、バクシーの野郎がコートの下に着ていた腹巻の中に押し込まれているらしい。硝煙となめした革みたいな匂いの中に入り混じる汗の香り。他人の体臭なんて不快なものでしかないはずなのに、それを嗅ぎ取った瞬間、野郎の腹筋に突っ張っていた四肢が弛緩した。

「ヨーシヨシ、さっき覗いてみたけどそこのバケツには碌なモン入ってなかったからな。俺の隠れ家で何か食わせてやっからよぅ、大人しくしててくれや」

野郎の腹にぴったりくっついた俺の身体を震わせるように、低い声が響いてくる。

(この野郎の隠れ家だと?)

そんな危険な場所に行ってなるものか、という焦燥感。このままついて行けばこいつの隠れ家についての情報が手に入る、という打算。
そして、ここに入っていればもう怖い目に遭わなくて済む、という謎の安心感。

(しっかりしろよ、俺

これまで、不安しか与えられた覚えのない野郎が相手だっていうのに。俺の身体を下から支える腕の逞しさとか。シャツ越しに伝わってくる体温のあったかさとか。ゆっくりと進められる歩みがもたらす振動の心地よさとか。そんなもんに、疲弊しきった心身が解されていっちまう。

「ニャ

ゴロゴロと鳴り出した喉に呼応するように、もう一度腹の虫が鳴いた。プランゾを食ってから、もう結構な時間が経ってるはずだった。

(とりあえず餌くれるっつーならもらってやるか。腹が減ってはナントヤラっつーしな)

頭の中で自分に言い聞かせ、目から上だけを腹巻の外に出し、俺は野郎の隠れ家へと運搬されてやることにした。

◇ ◇ ◇

捕獲された場所から通り一本分移動しただけの古いアパートにバクシーは足を踏み入れる。

(アパートっつーか廃墟?)

ところどころ壁が崩れた建物には、他の住人はおろか、電気の来ている気配すらない。だが、一歩室内に入ると生活感のある空間が広がっていた。床の中央に丸めて置かれた毛布。その下から覗いているのは恐らく寝床代わりの段ボールだろう。壁際にはテーブルと椅子。テーブル上に敷かれた布の上には数本のナイフが並んでいるのが視認できた。部屋の中はもうかなり薄暗くなってるのに、猫の目ってのはなかなか便利なもんだ。
バクシーは部屋に入るとすぐ、入口脇の床に置いてあった乾電池式のハンドランプを拾い上げてスイッチを入れる。そいつを掲げながら部屋の中をぐるり、見渡して。

「刃物は一応片付けとくか」

呟いたバクシーが大股でテーブルに歩み寄る。腹巻の中に納まったままの俺の身体がでかい左手で軽く抑えつけられた。動くな、という無言の意志が伝わってくるその動作に、喉から不機嫌そうな唸り声が漏れる。

「ウゥ
「オメェがうっかり怪我しちまったらまずいべ? 片付けたら自由にさせてやっから」

宥めるような口調で言いながら、バクシーが光る刃物を一本、取り上げた時だった。
カサ、カサ。
どこかから聞こえてくる物音を拾った耳がピン、と立って、その方角へピクリと動く。それが何の音なのかを俺が把握するよりも先に、バクシーの腕が動いていた。何か鋭いものが空気を切る音。それに続く、小さな衝撃音。テーブルの上からいつの間にか一本消え失せたナイフ。
のそり、動いたバクシーは部屋の隅へと歩いていって、そこに屈み込んだ。その時にはもう、俺にも何が起きたのか把握できていた。床板に縫い止められてもがく一匹のネズミ。丸々と太った身体は生まれたての子猫よりもよっぽどデカそうだった。ナイフで串刺しにされた胴体の下からじわり、滲み出た血が床板に吸い込まれていく。

(全然、見えなかった

あの一瞬でナイフを投げてこいつを仕留めたんだ、と。理解した途端に背筋を冷たいものが駆け上ってきて俺は無言で身体を震わせた。
柄を握った手が、ナイフを床から無造作に引き抜く。突き刺さったままの胴体はわずかに手足を蠢かし、だらりと下がって痙攣する尻尾を伝った血が先端から床に落ちていくのがやけに鮮明に見える。光を失ってどんよりと澱んだ赤い目と視線が合った、ような気がした。

「こいつはオメェにやるわ。俺は優しーい男なんでナァ」
「ニャッ!?」

ナイフごと目の前に突き出された灰色の塊に、俺は悲鳴を上げ腹巻の奥に顔を引っ込める。

「アレ? 喜ばねぇの? 獲れたて新鮮だじぇ? こんだけデカけりゃオメェのサイズなら満腹になれんだろ」
「ニャーーー!」

(誰が食うかよ! 早くそいつを引っ込めろっつーの!!)

不思議そうな声を上げて腹巻の中を覗き込んでくる男に、精一杯の抗議の声を上げる。なおもしつこく近づけられるネズミから逃れようと、目の前の壁大男の硬い腹筋に必死でしがみついた。

「痛てて、爪立てんなってばよぅ。アレか、オメー、もしかして人間のくれる餌しか食ったことねぇ箱入りか?」

ナイフを持っていない方の手が腹巻の中に潜り込んできて、俺の頭から背中にかけてをさらりと撫でていく。一見無造作なのに案外優しいその動きは、慣れを感じさせた。

「野良にしちゃ毛並みがいいもんナァ。どっかの家から逃げ出して迷子になっちまったクチか?」

とんとん、と宥めるように指先で軽く背骨を叩かれる。まるで子供をあやすみたいなその調子に、自然と喉が鳴って尻が揺れちまう。

「ぐるる
「しゃーねぇ、この貴重なタンパク源は後で俺の飯にすんべ」

ネズミが刺さったままのナイフをその辺に置いてあった木箱の中に置き、バクシーは改めてテーブルの上のナイフを片付ける。布を敷いた金属製の缶の中に丁寧に刃物を収め、蓋を閉めたあとは留め金まできっちり掛ける念の入れようだ。

「オメェにはこれなら食えるだろ」

ネズミが入っているのとは別の木箱を漁ったバクシーが、中から白いホースを短く切ったようなもんを取り出す。

「今日の昼にNYのリトルトーキョーで買ったちくわっつー魚のパスタ。俺もさっきちっと食ってみたけどなかなかうめぇぞ」

鼻先に突き出されたその謎の物体を嗅いでみると、確かに魚の匂いがした。だが、イマイチ食い物に見えないその外見に踏ん切りをつけられずにいると、バクシーはそれをあっさり引っ込めちまう。

「ナ

遠のく食い物の気配に思わず未練がましい声を上げて頭上を見上げる。俺を見下ろしたバクシーは、真っ白い歯でそれを食いちぎってみせた。齧り取ったティクワとやらを旨そうに咀嚼しながら、バクシーはもう一度それを俺の鼻先に差し出してくる。

「ほれ、おめぇも食ってみ?」

恐る恐る齧りつくと、ねちっとした弾力のある歯応えに続いて、ジューシーな旨味が口の中に広がった。

(ああ、これ、魚のすり身だ

初めて食うのに、どこか懐かしいような気もするその味。気づけば俺は夢中になって残りのティクワに食らいついていた。

「お、気に入ったか? やっぱ猫には魚だよなぁ。ほれ、まだあるから落ち着いてゆっくり食えよ」

床の上に下ろされた俺は、新たなティクワを今度はゆっくりと噛み締めながら食う。俺の隣に座り込んだバクシーは瓶の蓋を開けると、でかい掌にその中身を垂らして差し出してきた。匂いのしない透明な液体。恐らくは、水だろう。

「この家、器が空き缶しかねぇんだわ」

だったらその空き缶に水を入れてよこせよ、と言いたい。何が悲しくて野郎の手から飲まなきゃならねぇのか。

「オメェのドン臭さだと、空き缶の縁にどっか引っ掛けて怪我しそうだからなぁ」
「ッ、グッ?」

まるで心を読んだかのような返答に、ティクワをうっかり喉に詰まらせかける。

「あーあー、落ち着いて食えっつったのに。ほれ、水飲め、水」

差し出された掌に顔を突っ込み、必死で舌を動かす。俺の勢いにバクシーは小さく喉を鳴らして笑い、掌の器に水を追加した。

「けふっ」

水を飲み、ティクワを残さず胃袋に収めた俺は、思わぬ腹の重たさに床にぺたりと座り込んだ。自分の腹を見下ろすと、想像以上に膨らんだ丸いラインが視界に入る。たったあれっぽっちの食糧で満腹になっちまう今の自分のサイズを思ってやるせない気持ちになったのは、ほんの一瞬だけだった。

「くぁ

込み上げてきた欠伸に大口を開けると、釣られるように背筋が伸びた。尻尾の先まで震わせながら、ゆっくりと酸素を取り込んで、吐き出す。

「腹いっぱいになったら眠くなっちまったか?」

無造作に俺の身体を掬いあげるバクシーの手に、抗う気力はもう残っていなかった。段ボールの上に丸めて置かれた毛布の間に、そっと下ろされる。頬に触れる柔らかい布の感触。自然と瞼が落ちかける。
不意にバクシーが離れていく気配に、閉じかけていた目が開く。キッチンの方角へと去っていく大きな背中を追いかけたくなる衝動をグッと堪えて、毛布の上で背中を丸めた。落ち着きをなくした前足が毛布を踏みしめるように何度も動く。

(さっきは、あの野郎のせいでパニック起こしてたってのに

今はむしろ、傍にいないと落ち着かないなんて、どうかしてるとしか言いようがなかった。遠くから聞こえる流水音を捉えた耳が、その合間に紛れ込んでるはずの野郎の足音とか衣擦れを拾い上げようと忙しなく動いている。
得体の知れないあのキチガイヤンキーは、姿が見えないと何をやらかすか分かったもんじゃねぇ。だから気になっちまうに違いない。そんな風に自分を納得させながら、ささくれだった気持ちを静めようと深く息を吸い込む。毛布には野郎の匂いが染みついていて、安心するような、緊張するような、奇妙な心地に、ヒゲがむずむずした。
蛇口を捻る音に続いて、水の流れが止まる。近づいてくる足音の方角に、毛布に顔を埋めたまま頭を動かしてチラリと視線を投げかけた。さり気ない動きのつもりだったが、近くの床に置かれたハンドランプの光に照らし出された俺の姿は、どうやらバクシーの側から丸見えらしかった。

「オ、まだ起きてたか」

重機のアームみたいながっしりとした腕が伸びてきて、懐に抱え込むように抱き上げる。俺の全身をあやすみたいに揺らしながら、バクシーが上から覗き込んだ。

「慣れない場所で落ち着かねぇか?」

低い囁き声には微かにミントの香りが入り混じっていた。キッチンで歯を磨いてきたのか、と。そう思ったところまでは記憶にある。
触れ合った箇所から伝わる体温。心地よい揺れ。鼻先をくすぐるバクシーの匂い。それらに包まれながら、俺はいつの間にか意識を手放していた。

◇ ◇ ◇

気づくと部屋の中は真っ暗だった。カーテンのない窓の向こうに細い月が見える。頭上を見上げると、俺を懐に抱え込んだ男の穏やかな寝顔があった。皮膚越しに伝わる体温と、呼吸に合わせて上下する分厚い胸板。それらがなければ死体と勘違いしちまいそうなぐらいに、静かな寝姿だった。

「ナ

狭い場所を求めて脇の下に頭を捩じ込むように突っ込むと、バクシーの腕がピクリと身じろぐ。ゆるりと持ち上がったデカい手が俺の背に宛がわれた。背中から尻にかけてを何度も何度も往復して撫でられる。

(起こしちまったかな?)

だが、猫相手でも構わず話しかけてきたおしゃべりな男は、今は無言のまま、ただ俺の背を撫でていた。頭上からは規則正しい呼吸の音しか聞こえない。

(無意識かよ

起きている時と変わらない優しい手つき。無性に胸が絞めつけられるような気分になる。逞しい腕に俺は尻尾をくるりと巻きつけて、息を深く吸い込んだ。この野郎の匂いは、今日、出会った時からずっと、嫌な感じがひとつもしなかった。

(何か、すげぇ、落ち着く

俺の意識は波に飲まれるように、再び沈んでいった。

◇ ◇ ◇

さわ、と頭を撫でる大きな手の感触。こんなにデカい手の持ち主、かつ、俺に気軽に触れてくる相手なんて、そう選択肢は多くない。

「んルキーノぉ?」

呟きを漏らした直後、手の動きがビクリと硬直したように止まった。代わりに、警戒感のようなもので周囲の空気がビリリと震えたように緊張したのが分かった。ただならぬ様子に、意識が一気に覚醒して目を見開く。ほとんど同時に、両の二の腕を拘束されるみたいに掴まれた。
視界に映り込んだ銀色の双眸に、俺は即座に状況を思い出した。

「バクシー
「オイ、こいつぁどういうこった?」

バクシーは俺の動きを封じたまま、警戒したような目つきで睨みつけてくる。だが、その声にはどこか途方に暮れたような響きがあった。

「あー

(ヤベェ、何をどう説明したらいいんだ?)

昨日の猫は俺でした、とでも言えばいいのか。それをこの野郎は信じるだろうか。再現なんてできるわけがないし、仕組みについて訊かれたところで説明できる気がしねぇ。俺が知りてぇよ。
否。そんなことよりも、もっと大きな問題が立ちはだかっていた。
こいつの匂いに、体温に、存在そのものに安心しきって甘えていた昨夜の自分の姿を思い出して、絶叫したい気分になる。

(本当のことを言ったら、アレが俺だってバレちまうじゃねぇか!)

猫になって彷徨っていた時よりも、今の状況の方がよほどピンチに違いなかった。

(カッツォ、死にてぇいや、むしろこいつをぶっ殺しちまえば

俺の内心を読み取ったみたいに、眼前の男の目に不穏な光がギラリと浮かぶ。それだけで蛇に睨まれたカエルよろしく、全身が竦みあがった。この野郎相手にどう頑張ったって、殺されるのは俺の側だ。

(言うか、言わざるか

事の顛末は、俺とこのキチガイ野郎だけの秘密だ。