シノギのためにフィラデルフィアまで出張ってきていたバクシーは、かれこれ一週間ほど彼の愛する恋人に会えていないため、大変に機嫌が悪かった。組のシノギは先ほど全てを終わらせており、後は一刻も早くロックウェルに帰って可愛い可愛い恋人と甘い時間を過ごしたいところではあったが。個人的な事情により、絶対に寄らなくてはならない場所があった。ジャンにも、イーサンにも、カラーひよこ共にも、誰にも知らせてはいない。だが、バクシーにとっては決して放置してはならない用事が、あった。その用事について考えるほどに、バクシーの機嫌は悪くなっていく。
◇ ◇ ◇
少し北に進めばペンシルヴァニア州との境界に差し掛かる、デラウェア州の片田舎。田舎とはいえども、周辺の街よりはちょっとだけ栄えた辺鄙な街。その下町の路地で日銭を稼ぎながら男は生きていた。どうにもついていない人生だった。貧しさから親に売られ、同じような立場の子供たちと列車に詰められて農場へと送られ、そこで奴隷のように使役されていた。やがて耐えきれなくなって数人の仲間と農場を飛び出したが、学も知識も社会経験も先立つものも何一つ持たない子供が生きていくのは容易ではなかった。貧困に喘ぎながら生きるうち、ヤクザ者に目をつけられて殺された仲間がいた。世間に失望して農場に舞い戻った仲間もいた。戻ったところでどんな目に遭わされるかも分からないというのに。そうして残った仲間もやがて散り散りになり、一人で必死に生きていた男が、ようやく自分の糊口を凌げるようになり。どうにかこうにか成人年齢――二十一歳に達してそういくらも経たないうちのこと。男は、窃盗で捕まって監獄に送られることになったのだ。
本来であれば、実刑を食らうほどの罪ではなかったと後から人に聞いて知ることとなった。恐らくは盗んだ相手が悪かったのだろう、と。そんな知識など一つも持たず、まともな弁護士についてもらう金もなかった男は、一年間のムショ生活を送ることになった。ムショの中ではマフィアやギャングの構成員が幅を利かせていて、何の後ろ盾も持たない男は息を潜めるようにして日々を過ごした。時折り、どんな罪状でここに入ったのかと問われて正直に答えれば、運の悪い奴だと嗤われた。これまで生きるのに必死で深く考えたことはなかったが、なるほど確かに自分は運の悪い人間なのだろうと、その時初めて男は気づいた。
男が収監されてから半年ほど経った頃、ムショに新入りが一人やってきた。恐らくは男とそう変わらない年頃の、眩しい金髪と蜂蜜色の瞳を持った、太陽のように笑う青年だった。マフィアの下っ端構成員だというその男を見知っている者たちは、彼を〝ラッキードッグ〟と呼んでいた。賭け事では負け知らず、何度収監されてもいつの間にか刑務所から姿を消してしまっている脱獄の名人。そんなラッキードッグの幸運のお裾分けを頂戴しようと、出所間際に握手を強請る囚人たちが何人もいた。そのことを知った男も、出所する際にはラッキードッグの元を訪れた。
煙草五本と引き換えに握った手は紛れもなく男のものだったし、碌にシャワーも浴びてない金髪は薄汚れていたが。自分に手を差し出したラッキードッグの顔に浮かぶ屈託のない笑いに。自分を真っ直ぐに見据える蜂蜜色の瞳に。無性に胸が騒いだことを男は今でも覚えている。ムショの中、人目につかない場所で絡み合っていた男たちを見た時には吐き気しか覚えなかったはずなのに、それと同じことを目の前のこの男としたいと、強く思った。無論、思っただけで終わったが。
ムショを出てからの生活はそれまでと大差ない、貧しいながらも何とか生きていけるというだけのものだった。端から分かってはいたが、ラッキーのおこぼれにありつけたと感じたことは一度もなかった。それだったらいっそのこと、握手ではなくもっと違うことを強請ってみせればよかった、と。そんな欲望ばかりが大きくなって、とうとうある日、男は一つの嘘を口にした。嘘をついたのはただの一度きり、それも今いる土地でのことではない。元々が根無し草だ、無賃乗車を繰り返して流れ着いた先が現在の居場所であり、嘘をついた土地がどこであったのかは既に男の記憶にもない。
『俺は、ラッキードッグと寝たことがある。出所前のゲン担ぎにやらせてもらったんだ』
アンラッキー続きの人生の中で、自分にだって一度くらいラッキーが起こってもいいんじゃないのかと。そんな願望が生み出した、他愛もない嘘だった。それがついていない人生の幕引きを呼び込むことになるとも知らずに。
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「もしもし、お兄ちゃん? お兄ちゃんのために春のお花を摘んだんだけど、今眺めてみたら思ったより綺麗じゃなかったの……ごめんね。お土産はア・タ・シでも構わないかしら?」
人間の顔から剥がされた皮膚を指に引っ掛けてぐるぐると回しながら、バクシーは電話の向こうにいる最愛の恋人に語りかける。気色悪いとか土産なんかいらねぇとか、電話口で罵っている彼の姿を想像しただけで更なる愛おしさが込み上げてきた。何もいらないから早く帰ってきて無事な姿を見せてくれ、という遠回しなジャンの愛情表現をバクシーが受け止め損ねることはない。
「この電話を切ったら、真っ直ぐロックウェルに向かうからよ。――愛してるぜ、ジャン」
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デラウェア州の片隅にある田舎町にて、ダウンタウンの路地裏に倒れている一人の男が発見された。発見者は死体を見つけたと思ったが、実際には男は生きていた。身元を証明するような物は何一つ持っておらず、顔の皮膚を剥がれているために人相は不明。両掌の皮膚も同様に剥がされており、指紋を照合することができないので前科者かどうかも分からず終い。顎の骨を砕かれているため会話もままならない。身体つきからまだ若い男性のようだということが辛うじて分かっただけで、それ以上の情報は何も出てこなかった。男はその状態で五日間ほどは生きていたが、やがて息を引き取った。身元が分からず金も持っていない人間に高価な鎮痛剤を打ってやろうという奇特な医者はいなかったため、五日間、苦しみぬいて死んだ。最後の方は正気を失っていたことだけが彼にとっての幸いであったことは言うまでもない。