工場通りの一角、打ち捨てられた廃屋の中にテシカガは一人佇んでいた。何も映し出していないような虚ろな眼に、その昏さに、彼の内心の澱みが如実に顕れている。寛げられた下半身の衣類の隙間から力なくうなだれた男性器を覗かせたまま、右の手にはくしゃくしゃになった布切れを握り締め。
数刻前まで、この場には彼の崇敬するジャンカルロ・ニシパとその恋人がいた。彼らはこの部屋で二人きりで――厳密に言えば扉の向こう側にはテシカガがいたわけだが――睦み合っていたのだ。テシカガは二人の関係を知ってはいたが、現場を実際に目の当たりにしたのは初めてのことだった。
バクシーによって強引に始められたその行為は、ジャンの本意ではなかろうと思われたのに。テシカガにはそれを止めることができなかった。威嚇してくるバクシーを恐れたわけでも、場の空気を読んだからでもない。今まで残り香でしか感じ取ることのできなかった二人の行為を、実際に見聞きすることができる、その誘惑に負けたのだ。
見た、と言っても、ごく細くしか開けることのできない扉の隙間から見えたのはジャンの後頭部や背中の一部と、それを支える太い――ジャンの太腿ほどもあるだろう逞しい二の腕ぐらいのものだった。扉のこちら側にいる自分に間違いなく気づいているであろうバクシーが、それ以上見せないようにしているのだと、すぐに分かった。
わずかに垣間見えるだけのその光景よりも遥かにテシカガを煽ったのは、二人の立てる物音だった。性器を扱き立てているのであろう、粘着質な水分を含んだ摩擦音。ジャンの喉の奥から漏れているらしきくぐもった歓喜の声を打ち消す淫らな水音。恐らくは互いの唾液を啜り合っているのであろうと思えたそれに、性行為の際に交わされる口づけとはかくも激しいものなのかと、テシカガは初めて知ることになった。
事が終わると――どうやらジャンが一方的に吐精させられたらしい、というのは二人の会話で察せられた――ジャンはバクシーを罵り、蹴り飛ばし、床に跪かせて何度も踏みつけた。だが、それはあくまでじゃれ合いの範疇に収められたもので、バクシーは痛がる様子もなく宥めるような声色で謝罪の言葉を繰り返し。それを聞かされて納得したのか、あるいは一頻り踏みつけたことで満足したのか。テシカガの耳にも届くほどの大きなため息をついて、ジャンは矛を収めた。
最後にもう一度だけバクシーの尻を蹴り飛ばし、それから――その後に起こったことは、テシカガの理解を些か超えていたと言ってもいい。跪いているために自分よりも低い位置にあるバクシーの頭部、その頂点に、ジャンは口づけを落とした。
(――何故だ。ジャンカルロ・ニシパにとって、今のは不本意な行為だったのではないのか?)
既に肉体関係を持っている恋人同士であったとしても、合意のない性行為の強要は強姦と変わらない。そのはずなのに、バクシーの頭頂部にキスをするジャンの表情は慈愛に満ちていた。ごく細い隙間から覗いているテシカガの、限られた狭い視野の中で。そこだけにスポットライトが当たっているかのように鮮明に映し出されたその映像は、テシカガの網膜を灼いた。
(――嗚呼、赦されているのだ……)
ジャンカルロはテシカガにとって太陽にも等しい男だった。眩しく、暖かく、それなくしては生きていくことが適わない。だが、あまりに近くに寄ればその熱にこの身が焦がされて死ぬことになる。
そのジャンの隣に立つことを、その身に触れることを許されている男は、ジャンの意思をねじ伏せるような真似をしてさえも赦されるのだ、と。まざまざと見せつけられ、テシカガは絶望した。知っていたはずの現実が目の前に引きずり出され再認識させられたに過ぎないのにそう感じた自分の愚かさに、絶望はもう一段階深まった。
二人が隠れ家を後にするのを家の裏手に隠れてやり過ごし、それから改めて部屋の中に踏み込んで。テシカガは自慰に耽った。ついさっきジャンが放った精液の残り香。空気中に色濃く漂うそれに興奮しながらも、脳裡に浮かぶのは恋人の頭に口づけていたジャンの顔――自分には決して向けられることのない表情だった。
テシカガにとってジャンが太陽ならば、バクシーは月のような男だった。それに引き比べ、己が身は夜空に掃いて捨てるほどもある数多の星の一つに過ぎない。夜空を埋め尽くす無数の星の中でも人間の肉眼では見えぬような薄暗い、屑石のごとき星が月に敵うはずもない。
(まして己は、ジャンカルロ・ニシパとその伴侶の営みの残滓で興奮し、二人のまぐわいを想像して幾度も自分を慰めたことのあるような、卑小な人間だ。ジャンカルロ・ニシパが逢引きに使用している隠れ家にわざと本人を呼び出して。伴侶との愛の交歓を思い出すのであろう、羞恥の色を刷いたあなたの表情に悦びを覚える、そんな眇眇たる男だ)
一度出しただけでは収まらなかった興奮を、数度の放出を経て抑え込み。後に残されたのは途方もない絶望と虚しさだけだった。