あちこちに春の気配が顔を覗かせるロックウェルの街を、俺たちはぶらついていた。住人がいなくなって久しい廃屋群は、マメに下水の面倒を見てやらねぇと病原菌の温床になっちまう。最近はひよこたちに引き受けてもらうことの多かった作業だが、今日は久々に自分で足を運ぶことになった。理由は、現在俺の隣を歩いている木偶の坊が「たまには街中デートでもしようじぇ」などとアホなことを言い出したからだ。
冗談めかした言い種を一刀両断しようとバクシーを睨みつけた俺は、思っていたよりも真剣な目つきで見つめ返されて言葉を呑み込んだ。思えばここ最近はお互い忙しくしていた。昼間に一緒に出歩いた記憶はずいぶんと前のことになる。だからといって、全く顔を合わせていなかった、なんてことはない。夜にはカサブランカで顔を合わせてリリーの飯を一緒に食う。その後は同じ部屋で一つのベッドで眠りに就くし、眠る前には当然、その、そういうこともしている。
二人きりの時間なんてそれで十分なはずなのに。昼間にも一緒に過ごす時間がもう少しだけ欲しい、と思っていたのは俺も同じだった。
チラ、と右隣に視線を向ける。バクシーは調子っぱずれの鼻唄なぞを口ずさみながら、ご機嫌な様子で歩いていた。野郎二人でたらたら歩きながら廃屋巡りをしているだけなのに何がそんなに嬉しいんだか。なんて、素直じゃないことを考えながら、俺はそっと視線を逸らした。
「――――あれ?」
ふと視線をやった先。見覚えのある建物が、見慣れない様子でそこにあった。
「お気づきになりましたか」
建物を見つめたままの俺の鼓膜を、バクシーの低い声がそっと撫でていく。この野郎は最初から気づいていやがったのか、と思って、内心ちょっとだけ唇を尖らせる。俺もロックウェルにはそれなりに馴染んだつもりでいるが、ガキの頃からこの街にいたらしいバクシーとでは、どうしたって年季の違いが出ちまう。当たり前のことなのに、それが時々少しだけ悔しい。
「しばらく見ねぇ間にすっかり荒れちまったな」
「だなァ。あれからどんぐらい経つっけ?」
「半年ぐらい――って考えたら、そりゃこうなるか」
伸び放題の雑草に覆われたその廃屋は、かつての俺たちの――いわゆるヤリ部屋、だった。いつでもどこでも見境なく盛ってくる馬鹿チンコ野郎の相手をするための場所。若い女なんていやしないこの寂れた街で、性欲を持て余したアホな男が二人でセックスをするためだけの場所。
親父やリリーやマックスのいるカサブランカでは絶対にやりたくねぇ。そう言い張る俺を連れ出して、ここなら誰の目も耳も気にしないで思う存分やれる、と言った時のバクシーはどんな顔をしていたんだったか。あの頃の俺は、こいつが都合のいい穴を見つけてはしゃいでるだけだって、ただ性欲を発散したい一心で俺の機嫌を取ってるんだって、そう思っていた。
――否、思い込もうとしてた、のかもしれねぇ。
本当はずっと、気づいてた気がする。無鉄砲な俺の背中を護ってくれていた頼もしい腕。黙って俺を見守る優しい視線。無茶な要求も理不尽な我儘も、否定することなく全部受け入れてくれる懐のでかさ。
分かっていて、でも、怖くて。
よりによって自分をレイプしやがった野郎を信じるのが悔しかったのかもしれない。或いは、信じたあとで裏切られるのが――信じたものをまた失うのが、怖かったのかもしれない。
吹き抜ける乾いた風が、丈の高い雑草を静かに揺らす。冬の間に枯れてしまった古い草の合間から、眩しい緑が顔を覗かせていた。
(ああ、こんなにも……)
季節も、心も、移ろっていくものなんだ、と。不意に思って。眩暈のするような心地に襲われて、ゆっくりと目を閉じる。
瞼を閉ざしたままの俺の隣で、バクシーの動く気配がした。右半身に触れる熱い体温。大きな手で俺の右手が包み込まれる。いたずらな指が長い爪の先でそっと、俺の指の股をくすぐった。そこが俺の性感帯だってことを、こいつにはとうの昔に把握されちまってる。
ふるり、小さく身体を震わせた俺の耳に、唇をくっつけるみたいにして、バクシーが囁いた。
「ナァ、ちょっと寄ってく?」
欲情の籠もった熱い吐息混じりの問いかけ。この誘いに乗ってあの廃屋に足を踏み入れたらどんな目に遭わされるか、なんて。火を見るよりも明らかだった。それを自分が――自分の心も身体も欲していることを知っている。期待と興奮で、伏せた瞼が小さく痙攣するのが分かった。
だけど。
「――必要ねぇよ」
目を開いた俺は素っ気なくそう言って。雑草だらけの廃屋に一瞥もくれることなく背を向ける。
「エッ」
バクシーは俺が誘いに乗ってくると信じて疑っていなかったんだろう。驚きに明らかな失望の含まれた、素っ頓狂な声を上げる。それを耳にした俺は込み上げてきた笑いをそっと噛み殺しながら、野郎に握られたままの手を動かした。長い指と自分の指を絡め合い、掌をすり合わせるように握り込む。
「ジャン……」
「帰ろうぜ」
――俺たちの家に。
口にはしなかった言葉は、きっとちゃんと伝わっている。
今の俺にはもう、逃げ場所なんて必要ねぇ。あそこには恥ずかしくて、青臭くて、触れると胸が疼く、そんな思い出が渦巻いてる。あの日々を否定する気はさらさらねぇが、正面から見据えるにはもう少しだけ時間が必要だった。
無言のままのバクシーの視線が横顔に刺さる。こちらも黙り込んだままそれを受け止めていると、小さく笑う気配がした。
「そうだな」
帰ろう。そう言って、俺の手を引いて歩き出す。大きな背中を――銀色の後頭部を見上げながら、俺も足を踏み出した。
過去に寄り道するよりも、これからを一緒に歩きたい。この先も、ずっと。