会議室の中には雑多なざわめきが満ちていた。誰かが落とした密やかなため息、押し殺した咳払い、引きずられた椅子の脚が絨毯を擦る物音。
つい先程までこの場に燻っていた、火の点いた導火線の行く末を見守るかのごとき緊張感。その余韻が残り火のように漂う部屋の中。ベルナルドは、未だ椅子から立ち上がることもしないまま、己の対面に座る男を見つめていた。
新緑を思わせる美しい色合いの瞳が向けられたその先で。ジャンは束ねた書類の端をテーブルの天板に軽く打ちつけ、整える。トントン、という乾いた音がベルナルドの鼓膜を微かに打った。揃えた書類の束をジャンがそのまま無造作に右に差し出すと、その隣に座っていた青年が当然のようにそれを受け取り、革製のファイルケースへと収める。
会合の間中ジャンの右隣に座り、進行役を買って出ていたその男の名をベルナルドは知っていた。ヴァルター・ノイラート。かつては己の下にいた男だった。
自分を裏切った男が現在はジャンの隣にいて、彼に忠誠を捧げ、そればかりか当たり前の顔をして彼からの信頼を受け取っている。その事実に些かならず苛立ちを覚えたCR:5の筆頭幹部――カヴァッリ老はしばらく前に完全に引退してしまい、現在、幹部の座は一席空位となっている――はヴァルターから目を逸らし、再びジャンへと視線を向けた。
風呂嫌いで、一週間や二週間は平気でシャワーも浴びずに薄汚れた格好でうろついていたかつての弟分。自分が指摘してやらないと歯も碌に磨かず、顔を洗っても目やにをこびりつかせたまま。そんな男が、黒いスーツをビシッと着こなして目の前に座っている。一見すると真っ黒な生地は、彼の身動ぎに合わせて表面に美しいストライプが浮かび上がる上質な織りをしていた。
以前よりも少し顔の肉が削げて見えるのは、痩せたためなのか、シャツがロングポイントのせいでそう見えるだけなのか。会合の間ずっと気になっていた疑問の答えを探すように、ジャンの首元を眺める。首周りを彩る黒とシルバーのアールデコ柄のネクタイを下から押し上げる、ネクタイピンの存在。それは彼に相応しい金無垢ではなかった。
プラチナらしきピンの銀色の輝きに網膜を刺された瞬間。じわり、ベルナルドの胸の裡に黒い染みが広がっていく。理由は本人にも分からない。ただ、目の奥に灼けつくような痛みを感じて、ベルナルドは眼鏡を外し、閉じた瞼を指先でそっと抑えた。
「コマンダンテ、そろそろ……」
いつまでも立ち上がろうとしないベルナルドの耳に、右隣に座っていた部下が遠慮がちに囁きかけてくる。微かな困惑を含んだその声色――不調なのかと尋ねてよいのか躊躇っているのが、ベルナルドには痛いほどに伝わっている――を受け、ベルナルドは細い息を喉から吐き出した。それから大きく息を吸い、今度は明瞭な言葉を発する。
「ああ、行こうか……」
眼鏡を定位置へと戻したベルナルドは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。座面に貼られた本革が軋み、微かな擦過音を生む。内羽根式のストレートチップの靴底から伝わってくる、厚手の絨毯の感触。踏みしめた足がそのままずぶずぶと沈むような幻想に囚われながら、ベルナルドは一歩を踏み出した。
会合の間、ジャンは一度もベルナルドを見ようとはしなかった。眼差しは幾度となくこちらに投げかけられた。ただ、金色の瞳がアップルグリーンの瞳と視線を交わらせることはついぞなかった。
今日から一年間の不可侵講和条約。GDはCR:5の縄張りで騒ぎを起こさない。CR:5はGDが他勢力と行うシノギ――砂の売買に横槍を入れない。有り体に言ってしまえばそういうことになる条項を、形式的に整えて読み上げたのはヴァルターだった。それに対してジャンとベルナルドはそれぞれ応諾の声を上げた。
「Yes」と口にした瞬間のジャンの視線は、ベルナルドの喉元に固定されていた。「Si」と応じたベルナルドは、ジャンの口から自分と同じ響きが出なかったことに、密かな衝撃を受けていた。
(――もう、〝そちら側〟の人間になってしまった、ってことか…………)
認めきれない現実に葛藤しながら、大きな会議用テーブルの向こう側に、改めて視線を向ける。自分たちと同様、ジャンとヴァルターが言葉を交わしながら立ち上がる様子が窺えた。晴れた青空の下で揺れる麦穂のような金髪に引き寄せられるように、ベルナルドの爪先はそちらへと向いていた。
今日、この場に来ることができたのはベルナルドだけだった。今回の講和に当たり、先方――GDサイドから出された条件の一つが、「護衛は何人連れてきても構わないが、幹部は筆頭のベルナルド・オルトラーニのみとすること」だった。
講和の場にジャンが顔を出すかどうかは、今日になるまで不明だった。だが、ジャンと直接顔を合わせることができるかもしれない、その機会を逃したくない他の幹部たちは、この条件に対して一様に反発を示した。
それでも、条件に添えられていた「受け入れられなければ講和は白紙に戻す」という一文の前に引き下がることしかできなかった。指名されたのが、あの抗争の際に、唯一ジャンと直接対峙することのできなかったベルナルドであったことも大きい。
忸怩たる思いでこの場を譲った彼らの内心を思えば、ひと言も交わすことなくこのままジャンと別れてしまうわけにはいかない、と。
重たい脚を引きずるような心地で――あくまでもベルナルドの内心がそうだというだけで、傍目には尋常に歩いているように見えていたが――ベルナルドは歩を進める。
自分たちに近づいてくるベルナルドに気づいたのは、ジャンよりもヴァルターの方が先だった。或いは、ジャン自身は気づいていて気づかないふりをしていたのかもしれないと、ベルナルドにはそう思えた。
「ドン・オルトラーニ、何か?」
完璧に整えきった表情と口調でヴァルターが誰何の声を上げる。そこでようやくジャンはベルナルドを振り返った。
(――視線は合わないまま、か)
「ジャン……」
嫌味でも、軽口でも、この際は恨み言でも構わないから、ジャン自身の言葉を聞かせてほしい。そんな思いで呼びかけると、ジャンの瞼がひくりと微かに痙攣するのが分かった。だが、ジャンの唇が開かれるよりも先に。
「オハナシは終わったんだべ?」
不意に横合いから伸びてきた長い――まるで重機のアームを思わせるようながっしりと野太い腕が、ジャンの肩から胸にかけて蛇のように巻き付いた。腕の持ち主は、会談の間中ジャンの左斜め後ろに立って護衛役を務めていた男だった。日頃は申し訳程度に布を引っ掛けているだけ――としかベルナルドには思えない――の上半身は、今日は黒いシングルブレストのジャケットに包まれている。その腕にグッと力が込められて、ジャンの身体を抱き寄せた。
腕の動きに抗わなかったジャンの後頭部が、己の背後に壁のように立つ男の胸元にぶつかる。その瞬間、ジャンが微かに頭を揺らし、厚い胸板に甘えるように擦りつけたのを、ベルナルドの目は捉えていた。
その男の身に着けたスーツが、デザインこそ違うものの、ジャンのそれと同じ生地で仕立てられていることにベルナルドは気づいていた。窮屈そうなネクタイを下から押し上げるピンの金色の輝きに、アップルグリーンの瞳がスッと細められる。
「とっとと帰ろうじぇ。つーか腹減ってねぇ? 何か食いに行くべ。あ、トマトとチーズは抜きで頼むワ、コレ絶対」
そこにいるベルナルドの存在など視界に入っていないかのように、バクシーが退屈そうな声で甘えるようにジャンに語りかける。だが、その言葉の後半部分は完全にこちらへの当てつけであることをベルナルドは理解していた。
「ったくしょうがねぇなあ、ガキじゃねぇんだぞ。そういう格好してる時くらいビシッとできねぇのかよ」
「ラの字がうるせぇから着てやったけどよぅ、落ち着かねぇから早く脱ぎてェわ。……ナァ、ジャンが脱がしてくれるゥ?」
最後の一文はジャンの耳許でごく小さく囁かれたため、幸か不幸かベルナルドの耳には届かなかった。だが、内容を詮索するよりも先に、ジャンの表情に意識が奪われてしまう。蜂蜜色の瞳を丸く見開き、くしゃりと笑み崩れたジャンの顔は、相手への信頼に満ちていた。鋭利なナイフ――否、アイスピックで刺されたような痛みがベルナルドの胸を貫く。
(それは、俺の――)
つい先刻、ようやく引き寄せたかに思えたジャンの意識。それはあっという間にベルナルドから引き離され、ジャンの背後に立つ男に奪われてしまっていた。罅の入ったガラスから、破片が少しずつ剥がれ落ちていくように、己の精神から何かが剥離していく感覚。眩暈を覚えたベルナルドの目の前で、ジャンは肩を抱かれたまま左手を顔の高さまで上げる。
「じゃあな」
ひらり、手を振り、軽い口調で別れの言葉を口にして。そのままベルナルドに背を向ける動きの途中で、ジャンはふと動きを止めた。
「あ」
何かを思い出したような声を上げて振り返る。その視線が、今日、初めて、ベルナルドの顔の上で焦点を結んだ。金色の瞳に真っ直ぐ見つめられたベルナルドは、思わず息を呑んでいた。視線が絡んだ、ただそれだけのことだ。だが、今日、何よりも渇望していたその瞬間の訪れに、胸の内側で何かがどくりと脈打った。
「あんた、今日が誕生日だったっけ。おめでとさん」
ごく自然に、何の気負いもない調子でそう言って。本当に、ただそれだけを口にして、次の瞬間にはもう、ジャンは背を向けていた。
「オラ、行くぞ。俺のお勧めのメシを食わせてやんよ。トマトとチーズマシマシでな」
「オウフ! そんなご無体なァ」
バクシーの尻に掌が叩きつけられて、パシン、と派手な音を立てる。直後に上がったふざけた悲鳴に、ジャンは再度手を揮った。
「気色悪い声出してんじゃねぇよ、このヘチマ野郎」
苛立っているかのような口調の陰に見え隠れする、気安さと親しみの色。ベルナルドの肚の奥で、激しい嫉妬と憎悪が渦を巻く。
眼鏡のフレーム越しに切り出された視界の中で、並んで歩く二人の背中が遠ざかっていく。CR:5の頭脳を務める男なら、引き留める手段など幾らでも思いつくはずだった。
だが、現実のベルナルドは、為す術もなくただ立ち尽くす。愛しい背中がドアの向こう側へと消えてしまってもなお、視線を逸らすことはできないまま。
見えない影を追うアップルグリーンの瞳の上で、長い睫毛が揺れる。ベルナルドはゆっくりと、両の掌を握り込んだ。
かつてその手の中に掴んでいたものを、悼むように。