眠るバクシーの鼻先に、何かが触れた。それは暖かくて丸くて甘くて柔らかくていい匂いのする、幸せの気配を伴った何かだった。両の瞼は閉ざしたまま、バクシーは口許に締りのない笑みを浮かべる。そうすると、温かな何か、の纏う気配が更に優しいものになったのが、目を瞑ったままでも伝わってきた。
「おいこらバクシー、このヘチマ野郎、狸寝入りかよ。いつまでそうしてるつもりだ?」
鼓膜を打つ柔らかい声色に、バクシーの身体の奥底からは愛しさと喜びが湧き起こってくる。もっとその声で自分の名を呼んでほしい。その唇で触れて、その手で撫でて、その腕で抱いて、もっともっと甘やかしてほしい。
「ジャンがチューしてくれたら起きられるかもぉ」
「はぁ? どこの眠り姫だよテメェは」
呆れたような声でそんなことを言うくせに、優しい手はさらりと銀色の髪の毛を撫でた後、バクシーの頭を枕から持ち上げるようにして、逞しい首の後ろに腕を差し入れてきた。同時に上から柔らかい感触が降ってきて、バクシーの額、瞼、頬に順番に触れてから、最後に唇にゆっくりと重なる。嬉しくなったバクシーが口を開けて舌を出そうとすると、唇に触れていた熱はするりと逃げてしまった。
「こっから先はまた夜になってから、な。ほら、目ェ開けろよバカちんこ」
「ん…………」
バクシーがゆっくりと目を開けると、すぐ目の前には誰よりも愛しくて何よりも大切な恋人の姿があった。視線が合うと、蜂蜜のように舐めたら甘そうな色の瞳がニイ、と笑う。ひどく懐かしいその姿にバクシーは安心して――それから、戸惑う。
(――アレ? ゆんべも一緒に寝たはずなのに懐かしい……っておかしいべ?)
何故懐かしいなどと思ってしまったのか、と首を捻ったバクシーは布団の上で身を起こそうとし――そこで、己の腹の上に乗っている小さな生き物の存在にようやく気づいた。
「おめぇは……」
それはデイバンで拾った子猫だった。CR:5のカポのバースデーパーティの帰り道、絶望に胸を塞がれて道を歩くバクシーの行く手を塞ぐように現れた小さな生き物。ぽっかりと空いた胸の穴を通り抜ける風の冷たさが少しだけ紛れるような気がして、ロックウェルに帰るまでずっとその温もりを抱き締めていた。
いつもバクシーの布団を我が物顔で占領して眠る子猫の見慣れた寝姿にバクシーは頬を緩め。だがしかし、すぐに違和感が背筋を這い上ってくる。
(――マカロニどものお誕生日会なんぞに参加したことなんてねぇぞ、俺ァ……一体どうなってやがる……?)
存在するはずのない記憶に、バクシーはぶるりと大きく身を震わせた。何かがおかしい、と思わずにはいられない。
「バクシー?」
「ジャン……」
思わずジャンの腕を掴んだバクシーの手の中には、しなやかな筋肉に覆われた腕の確かな手応えと、温かな体温がある。目の前の恋人が間違いなくそこに存在していることを実感して、バクシーは大きく息を吐き出した。
「何だよ、もしかして怖い夢でも見たのか?」
「夢――あぁ、そう、だよな……夢、だ。夢だったんだ…………」
ごくり、と唾を呑んだバクシーは恋人の目をすがるように見つめる。
「なぁ……ジャン……愛してるって、言ってくれねぇか」
「はぁ? 何甘ったれたこと言ってやがんだ、このカボチャ野郎。そんなん……言わなくたって分かってんだろうが……」
「頼むよ、ジャン……言ってもらわねぇと、俺……」
「何だよ……そんなに怖い夢だったのかよ?」
「すげぇ……怖かった。怖くって、俺ぁ…………」
腕の中に抱いている大きな身体が、お化けを見てしまった子供のように震えているのを感じて、ジャンは小さく笑った。
「ったく、しょうがねぇなぁ。一回だけだぞ。これっきり、当分言うつもりはねぇからちゃんと頭の中のレコードに刻んどけよ?」
「あぁ、絶対、忘れねぇ」
「バクシー、俺の可愛いカボチャ野郎。俺は、お前のことを――」
◇ ◇ ◇
腕の中に抱いた男の顔が、ふと柔らかく微笑んだように変化するのを見て、ジャンは驚いた。男の魂は既にこの肉体から駆けり去ってしまったと思っていたのに、まだ意識があったのだろうか、と。
食い入るように見つめるジャンの視線の先で、弱々しく唇が動いて何かの単語を形作る。だが、もう音にもならないその声が何を言っているのかは分からなかった。
「バクシー……」
即死ではなくとも、助かるような傷ではないことは明白だった。男の言う〝俺のジャン〟が誰のことなのかは、結局ジャンには分からなかった。ただ、それが男にとっては誰よりも何よりも――それを失っては生きていくこともできなかったくらいに大切な存在なのだ、ということだけは痛いほどに伝わっていて。
残虐無比なギャングがあんなにも子供のように純粋な涙を流しながら求めていた相手が自分ではなかったことを、残念に思った。もしも自分がその相手であったなら、俺はここにいると叫んで引き止めてやることもできたかもしれないのに、と。
バクシーが何故自分を攫うような真似をしたのか、ジャンには最後まで分からないままだった。だが、もしかしたらバクシー自身もジャンに止めてほしいという思いがどこかにあったのではないだろうかと、そんな風に考えてしまう。
「助けてやれなくて、ごめんな……」
太陽の光を凝縮したような明るい瞳から溢れた雫が頬を伝って。彼が膝の上に抱いている男の、もう動かなくなってしまった唇を濡らした。