雪原にて
倒れ伏した雪の上で、バクシー・クリステンセンは己の四肢から力が、体温がじわじわと奪われていくのを感じていた。目は開いているはずなのに視界がひどく暗い。先ほどまで真っ白だったはずの風景は灰色がかって、物の輪郭は曖昧だった。
(――ああ、絶望の、色だ――)
自分はこのまま死ぬのだな、とはっきりと悟る。恐怖はなかった。ただ絶望だけが男の胸を占めている。先ほど目の前で喪われてしまった、彼の最も大切なひと。その仇を討つこともできないままに生命を落とすのだ。
天国や地獄があるのであれば、恋人とそこで再会する夢を見ることもできただろう。例え行き先が地獄でも、ジャンがいるだけでそこはバクシーにとっての楽園となる。だが、バクシーは神を信じない。だから天国も地獄も信じない。人間は死ねばそれで終わりで、死んだ後の審判など存在するはずがないと思っている。つまるところそれは、あの温かくて柔らかくて可愛らしくて、そして何よりも刺激に満ちた己の恋人。その人にもう二度と会うことは適わない、ことを意味していた。彼にとって、それ以上の絶望があるはずもない。
(――ジャン、ジャン――)
脳裡に鳴り響く恋人の名に引きずられるようにして、先ほどまで隣で笑っていた彼の姿が浮かび上がる。じわり、と。雪から伝わる冷気と共に後悔が身の裡に沁み込んできた。
(こんな、ことなら、よォ……)
こんな風に、一矢を報いることもできずに斃れてしまうぐらいだったら。彼の傍を離れるのではなかった。雪の上に投げ出された身体を抱き起こして。あの、碌に手入れもされていないはずなのに女性のようになめらかな金色の髪を指で梳って。その身体から体温が全て失われてしまうまで、ずっと抱きしめて。何度でもキスをして。そうして、最期の最期まで傍にいてやればよかった。そんな、後悔だ。
(あいつは、本当は、すげぇ寂しがり、だからナァ……)
「あ、い、……し…………じゃ、ぁ、ン」
降りしきる雪の中、誰の耳にも届かない掠れた呟きが零れて、消えた。