無印世界線でのジャンさんとバクシーのお話。

Lemon - 5/5

16,629文字 / 約19分
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終焉

目が覚めた時、ジャンはそこがどこなのかさっぱりと見当もつかなかった。裸電球に照らされた室内に窓の類は見当たらない。床や壁は打ちっ放しのコンクリート。どことなくカビ臭さの感じられる、湿気を含む澱んだ空気。恐らくはどこかの地下室なのだろうと思われた。
両方の手首を身体の前で手錠によって一つに纏められ拘束されている状況からして自分が攫われたことは間違いなさそうだと考えたジャンは、意識を失う前のことを思い出そうと試みる。

(えーっと、確かたまには一人でプランゾでもって、コレ、前にも何かあったよな?)

GDと休戦協定を結んだことが功を奏したのか、ここ最近のデイバンは平和そのものだった。正直なところ相手側の気紛れでいつ破棄されても不思議のない形ばかりの協定ではあったが、昨年のジャンのバースデーパーティにはわざわざボスの名代がやってきて祝辞を述べるという予想外のサプライズも発生していた。あちら側にも建前を維持しようというつもりがそれなりにはあるのだ、と分かって安心するような拍子抜けするような気分にさせられたことは未だジャンの記憶に新しい。
それに伴い判明したのは、前回の抗争の際には散々ジャンたちを悩ませてくれたショットガン・バクシーがあの、敵も味方も纏めて死ねと言わんばかりの無軌道な気狂い振りを見せていた男が、その気になればまともな会話もできるという事実だった。話の通じない怪物だと思っていた相手が生身の人間だったという現実は、ジャンにとっては今世紀最大の衝撃と言っても過言ではなく。そして同時に、張り詰めていた彼の警戒心を緩めさせる一因にもなっていた。
かくして、一人で気兼ねなく昼食を楽しみたいと護衛の目を盗んで飛び出したマフィアのカポは、その途上で何者かに襲われ意識を失い。気づけばどことも知れぬ場所にこうして監禁拘束される羽目に陥ったことを思い出した。
以前にも同じように一人で行動した結果、バクシーに当時はまだ休戦協定を結んでいなかったGDの幹部に遭遇して絡まれる、という事態に陥ったことのあるジャンは、己の学習能力のなさにがっくりと項垂れてため息をつく。

はー何をやってますのん、俺ちゃんはまぁたダーリンのおでこの面積が広がっちゃうわん)

筆頭幹部の顔を思い浮かべたジャンは、神経質そうに己の前髪を抑える繊細な指先と眉間に寄せられた皺を思い出して小さく笑いを漏らす。こんな状況だというのに今ひとつジャンの抱く危機感が薄いのは、彼の置かれている状況に原因があった。
意識を失ったジャンの身体は剥き出しのコンクリートの上ではなく、そこに敷かれたマットレスに転がされていた。更に身体の上には薄手のブランケットのようなものまで掛けられていた。それを払いのけて初めて気づいたのだが、春にはまだ遠いこの季節、屋内とはいえ地下の気温は肌寒い。彼の身体を冷やさないようにとの配慮からなされた行為なのだろうとジャンは予想している。
デイバンの路上で正体の知れぬ暴漢に背後から万力のような腕で押さえつけられたジャンは、頸動脈を圧迫されてあっさりと意識を失ってしまっていた。そのことを思い出して首を撫で回してみるが、特にどこが痛むということもない。ただ意識を奪うだけが目的であれば、後頭部を強打して脳震盪を起こさせた方が手っ取り早いはずなのに、まるで極力傷つけないようにしていたかのようだ、とジャンは感じた。
拉致した相手など、身ぐるみを剥いで縛り上げて転がしておくのが定石だろう。ところがジャンは手錠で拘束されてはいるものの、衣服にこれといった乱れはない上に、ベルトに挟んであるルガーもそのままにされていることが感触で分かる。

(何つーかこう、〝悪意〟みたいなもんが感じられないんだよなぁ

無論、意識を失わせて攫った上に拘束して自由まで奪っているのだから善意の元に為された行為などではないだろう。そうは思うが、自分の置かれている状況を冷静に分析したジャンは、違和感に首を傾げずにはいられなかった。
どうにも危機感を抱けずにいたジャンは、ふと、何かの物音を捕えて耳を聳てる。響いてくるのはどうやら上方からジャンのいるこの場所へと近づいてくる人間の足音のようだった。誰かが階段を下りてここにやってこようとしているのだと判断したジャンは、瞬時に考えを巡らせる。

まだ気絶したフリをしといた方がいい、のか? けど、俺がまだ眠ってると思ったらそのままいなくなっちまう可能性もあるか?)

相手の出方を窺うには意識がないふりをしていた方が得策かと考えたジャンは、だがすぐに考え直す。ここで機会を逸してしまえば、次に相手と接触できるタイミングがいつ巡ってくるかは分からない。

(少なくとも、俺を殺しにやってきたってことはなさそうだからな

最初から命を奪うのが目的だったのであれば、わざわざこんな所に監禁しておく必要がない。ジャンの身柄を餌にCR:5と交渉して思うような結果が得られなかったのであれば、相手はもっと苛立っているに違いない。だが、近づきつつある足音からは落ち着きと余裕が感じられた。ならば、相手と会話して少しでも情報を引き出した方がいいはずだ、と判断してジャンは腹を括る。
やがて部屋のすぐ外までやってきたらしい足音が止まったかと思うと、ギィィィ、という耳障りな音を立て、この部屋の唯一の出入口であるらしい鉄製の重たそうなドアが開いた。裸電球の明かりが電柱のような男のシルエットを映し出す。その姿にジャンは、やはり、という思いを込めて男の名を呟いた。

バクシー
「よぉ、ドギー。お目覚めだったか」

ジャンの声を耳にしたバクシーは特に驚いた様子もなく、マットレスの上で身を起こして座っているジャンの姿を見やるとその大きな口を二ィ、と歪めて笑った。部屋の中に入ってきた彼の背後で、重たそうな音を立ててドアが閉まる。室内に響き渡る、想像よりも大きな物音とマットレス越しに伝わってきた振動にジャンは無意識に肩を竦めていた。その間に大股に近寄ってきていた男は、ジャンの目の前で彼の様子を覗き込むようにその大きな身体を屈める。

「お前がここにいるってことは、俺を攫ったのはGDかよ」
「いんや。俺が個人的にお前に用があったんだワ」

バクシーの返答にジャンは訝しそうに眉を顰めた。ジャンにしてみればバクシーと己との間に個人的な関りなど存在していないし、攫われるような心当たりもないのだから至極当然の反応と言える。そんなジャンの表情を見てバクシーは小さく嗤い。それから、何の前触れもなくジャンに向けてその鉤爪のような手を伸ばした。

ッ」

その手が人間一人ぐらい簡単に捻り殺してしまうだけの力を秘めていることを知っているジャンは、反射的に身を竦める。だが、伸ばされた手はジャンを痛めつけるようなことはなく、ただ、温かな指の腹がジャンの左の頬をするりと撫でていった。普段の生活の中で他人に触れられることなど滅多にないその箇所に触れる体温に、ジャンはふと、先日の出来事を思い出す。
それは、幹部の一人の誕生日のことで。ジャン自身のバースデーパーティで受けた忠誠のお返しと称してキスを贈った相手から、更にそのお返しを頂戴してしまった時の記憶だった。大きな肉厚の手でジャンの背を抱き寄せた男が唇を寄せたのは、正に今バクシーが触れているその位置だったような気がして。その時の相手の表情や口調を思い出してしまったジャンは、同時に蘇った羞恥が表情に顕れそうになるのを必死に堪えようとする。

おめぇが生きてるならそれでいい
え?」
「おめぇは俺のジャンとは違う人間だから、生きてさえいれば、どこで誰と幸せになろうがそれでいいってよぅ。そう、思ってたつもりだったんだけどなァ
「バクシー?」

低く掠れるような声で囁かれるバクシーの言葉は、意味は分かるのに理解ができず、ジャンは戸惑いの声を上げた。それに構うことなく、バクシーは巨躯を更に屈めてジャンとの距離を詰めていく。迫りくるバクシーの厚い胸板に、ジャンは手錠で拘束されている両手を当て、何とかそれを押し退けようと試みた。だが、そんな抵抗も虚しく、ジャンの身体はあっさりとマットレスの上に転がされてしまう。起き上がる暇もなく、ジャンの太腿の上にバクシーが座り込み。自分の胴体くらいあるのではないかと思うような逞しい太腿でがっちりと腰の両側を挟み込まれ、ジャンは身動きが取れなくなってしまった。

「おい、バクシー!?」
「他の男がおめぇに触ってるのを見たら、クッソムカついてたまんねぇ。俺のジャンが触られてるみたいで触った野郎の手や口を切り落としたくなっちまう」
「おい、やめろって!」

ジャンの手首を拘束する手錠を左手で掴んだバクシーは、無造作にそれをジャンの頭上へと引き上げてその位置で固定するように押さえつけ。右手でジャンのネクタイを引き抜いた。

「ナァ、おめぇはもう、アイツらの誰かに犯られちまった?」
「何、言ってんだこの!」

日頃からバクシーが自分たちのことをホモ呼ばわりしていることはジャンも認識していた。オメルタを何よりも重んじ、身内を大切にするマフィアの在り様は、実力第一主義で隙があれば身内を裏切ってのし上がろうとするギャングの目にはホモの馴れ合い染みて映るのだと。
幹部との関係を揶揄するような悪趣味な煽り文句は、これまでにも幾度となく投げかけられてきた。バクシーの嘲罵と来たら、よくもまぁそんなにも悪意の籠った品性の欠片もない言い回しができるものだと逆に感心してしまいたくなるようなものだった。
だが、今のバクシーが発する言葉はこれまでのものとは一線を画しているようにジャンには感じられて。

表情の、せいだ

いつもこちらを罵ってみせる時のバクシーはひどく楽しげで、大きな口許は嘲笑に歪み、その両目はサディスティックな歓びに炯々と輝いていた。それなのに、今頭上からジャンを見下ろす男の眼はひどく悲しげで、まるでどこかが痛むのを必死に堪えているかのようだった。
男の表情に気を取られていたジャンは、布地の裂ける音に鼓膜を打たれて我に返る。着ているシャツの襟元をバクシーが乱暴に引っ張ったために裂けてしまったのだ、と理解するよりも先にひやりと冷たい室内の空気が胸元を撫でていった。

おい、馬鹿、よせッ」

手も足も動かすことができずただ首を振って身を捩ることしかできないジャンの胸元を、大きな手が撫でさするようにしながら寛げていく。無作法な侵略者は、だが、突然ピタリとその動きを止めた。

おい、バクシー?」

食い入るように一点を見つめたまま動かなくなってしまったバクシーを不審に思ったジャンが、彼の視線を追うように己の胸元を見下ろす。そこにあるのは見慣れた組織の刺青と、ちょうど鎖骨の窪みに引っかかったようになっている母親の形見のリング、ただそれだけだった。
のろり、と動かされたバクシーの手がジャンの刺青を撫でその指先がわずかに震えているようにジャンには感じられたそれから、リングを摘まみ上げる。薄く開かれた唇から、熱に浮かされた病人の譫言めいた、掠れた声が零れ出た。

もう一度食えば、また俺のモンになんのか?」

(スミも、輪っかもジャン本人も。食っちまえば前みたいに〝俺のジャン〟になるんじゃねぇのか

天啓のように感じられる閃きに囚われた男の双眸が狂気を宿す。それを目にして嫌な予感を覚えたジャンは、死に物狂いで身体を捩った。だが拘束された手を押さえつけられている上に、己にのしかかっている男との圧倒的な重量差に阻まれて思うような効果は得られない。絶望的な気分で男を見上げるジャンの視界の中、バクシーはその大きな口を開け、よく手入れされていそうな白く健康的な歯を剥き出しにして獰猛に嗤ってみせた。

ファンクーロ!!)

脳内で盛大に相手のことを罵りながらも既に打つ手を無くしたジャンが、万事休すか、と目を閉じかけた時だった。今にもジャンに噛みつかんとするバクシーの脚にふと何かが触れ、彼の意識を逸らした。

?」

そこに転がっていたのは一丁のドイツ拳銃で、元はジャンの腰のベルトに差さっていたはずのそれは、ジャンが暴れ回ったためにマットレスの上に転がり落ちてしまっていた。その銃を見つめるバクシーの目がゆっくりと眇められていく。そこに宿っていた狂気の光が急速に弱まっていくのがジャンには見て取れたが、その原因が分からずそれを言うならば、そもそもバクシーがおかしくなった原因からして彼には理解不能なのだが何も言えないままにただ黙って男の動向を見守る事しかできずにいた。

「そうだよなァ何をどうしたっておめぇは、俺の、ジャンじゃねぇ

転がっていた銃に向けられていた視線が、ゆっくりとジャンの顔へと戻って来る。もう狂気を宿してはいないが、奥底に煮え滾る熱を感じさせるようなバクシーの視線に射竦められ。思わず身じろぎをしたジャンは、背中に貼り付いていたシャツが剥がれる感触に、己がいつの間にか冷や汗で背をびっしょりと濡らしていたことに気づいた。
相変わらずどこかが痛むような表情でジャンを見下ろしながら、バクシーが薄っすらと唇を開く。

ジャンがいねぇと、息をするのも苦しい

言いながらひくり、と喉を鳴らすようにしゃくりあげたバクシーの姿は、彼の言葉通りに陸に上げられた魚のように苦しげに見える。状況も忘れて慰めたくなってしまったジャンは思わず彼に向けて手を伸ばしかけ。だがしかし、相手の視線が自分を通り越してもっと遠くの何かを見つめていることに気づいてその手を留めた。

「捨てねぇでくれって置いて、いかねぇでくれって言ったのによぅ

仰向けに倒れたジャンの顔の上にバラバラと温い水滴が降ってくる。それが己を見下ろすバクシーの両眼から溢れ出た涙だと分かっても、もうジャンは驚かなかった。この部屋で顔を合わせた瞬間からバクシーに感じていた違和感はこれだったのだと。涙は流していなくともバクシーは泣いているようなものだったのだと腑に落ちて。
そうして、ジャンは途方に暮れるしかなかった。
バクシーの言葉も視線も形の上では自分に向けられているのに、それらは全てジャンの上を素通りしていってしまう。

「ジャンジャン

置き去りにされた幼子が母を呼ぶ時のような響きを帯びたその声が、自分の知る凶悪なギャングの口から出ていることが信じがたい。そう思うジャンの視界の中で、バクシーの右手がゆっくりと動いてマットレスの上に落ちていた銃を拾い上げる。鉤爪のような指が安全装置を外すのを目にして、ジャンはようやく声を上げた。

おい、バカ、何する気だよ」

両手首の手錠は相変わらずバクシーの左手で押さえつけられたままのジャンに、声を上げる以上の何ができるはずもない。

「よせ、やめろ、バクシー!!!!」

絶叫するジャンの視界の中で、こめかみに宛がわれた銃の引き金を引く男の指がスローモーションのように動いて、ジャンの網膜にその光景を灼きつけた。

◇ ◇ ◇

二日前から所在の知れなくなっていたカポの居場所を伝える手紙を受け取ったCR:5の幹部と兵隊は、罠の存在を警戒しながらも迅速にその場所へと駆けつけた。使われなくなって久しい廃ビルの地下室の重たい鉄の扉を開けた彼らが発見したのは、部屋の中央に茫然と座り込む彼らのカポと。その膝の上に頭を乗せ、床に巨躯を横たえたギャングの幹部の姿だった。
ギャングバクシー・クリステンセンの身体は既に冷たくなっていた。彼のこめかみには銃創が残され、右手にはジャンの持ち物であるルガーが握られたままになっていた。両手を拘束されているジャンの状況から鑑みても、彼が自らの手でそれを行ったのは間違いないように思われたが、その理由や経緯を誰もが知りたがった。
二人きりの密室の中で何が起きたのかを問われたジャンは、だが、その直後もそれからどれだけの時間が経とうとも、誰にも何も語ろうとはしなかった。
ただ、時々、一人きりの執務室の中で。ジャンは、あれ以来一度も使用したことのない己の銃を抽斗から取り出して眺める。あの日のバクシーの涙を、声を、言葉を、思い出しながら。

 

 

インスピレーションを授けてくれた曲にリスペクトと感謝を。

 

 

*続き。『夢見る頃を過ぎても