ホテル・ダイアナパレスを出てから、バクシーの後をついて歩いていたジャンは、いい加減うんざりしていた。行く宛てもなければやりたいことすべきこともなく、己を拾ってくれた人間にただついていくしかない惨めな野良犬のような自分の有様にも。右を見ても左を見ても景気の悪さばかりが浮き彫りにされているようなこの街の風景にも。
「どいつもこいつも、クソだ――」
口の中だけで小さく呟いて空を仰ぐ。空の遠くに月が浮かんでいるのが見えた。いつか見たような月だ、と。自然とそう思ってから。
(――いつか、って……いつだよ)
反射的に湧き上がった疑問に囚われて、ジャンの歩みは少しだけ遅くなった。後ろからついてきていた足音の変化を敏感に察したバクシーが、己の肩越しに背後をちらりと見やる。そこには、ぼんやりと遠くを見やりながら歩く金髪の男の姿があった。振り返ったバクシーの姿はその視界の片隅に映り込んでいるはずだが、意識には全く引っかかっていないのだろう、ジャンの視線がブレることはない。それでも、スピードは多少落ちたがジャンの足がまだちゃんと動いて――自分の後をついてきていることを確認すると、バクシーは何も言わずに視線を前に戻した。
(そうだ、あれは……ベルナルドと飲んだ時に見た、あの夜の――)
十六の頃に知り合ったベルナルドはジャンよりも六つ年上で、それなりに気の置けない間柄――のつもりだった。少なくとも、ジャンの側ではそう思っていた。プライベートでべったり、というような仲ではなかったが、何かの折には二人で酒を飲むこともあった。二人して酔っ払って歩いている時に、空を見上げたベルナルドが言ったのだ。今日の月はジャンみたいで可愛い、と。そんな台詞は女に言ってやれと笑い飛ばしながら見上げた、あの日の月の姿がジャンの脳裡に蘇って。
「――ッ!!」
他の幹部たちはまだしも、ベルナルドのことは信じていたのだ。幹部たちがジャンを見捨てて自分たちだけで逃げてしまった痕跡を見せつけられてもなお、その気持ちはジャンの中に残されていた。ベルナルド自身は不本意だと思いながらもそうせざるを得なかったのではないかと。今もまだ信じていたい気持ちがある一方で、デイヴから注がれた毒は着実にジャンを蝕んでいた。もしも最初からベルナルドに騙されていたのであれば、彼と過ごしたあの柔らかな時間も、この記憶も、全て偽りのものなのだ。そう考えると悔しさと悲しさと惨めさで胸を?きむしられるような気分になって。空を仰ぐジャンは唇を固く噛み締めた。じわり、血の味が舌に刺さったが、気にする余裕もなかった。
息を呑む気配に改めて背後を振り返ったバクシーは、悲痛に引き歪んだジャンの表情を目にして内心でため息をこぼした。恐らくは自分を裏切った仲間――元仲間、たちのことを思い出しているのだろうことは簡単に予想がついた。それに関してはジャン自身が乗り越えるべき問題であって、バクシーには関係のないことなのだが。問題は、別の所にあった。
(センセー、勃起しましたァ!)
心の中だけで高らかに宣言する。バクシーに男色の気はない――はずだった。男を犯したのはあの日、怪我と薬の相乗効果で頭が吹っ飛んでジャンを犯したあの時が初めてだった。あの瞬間まで、男をレイプしようなんて脅し文句で口にする以上の具体性を持って考えたことなどなかったというのに。ジャンとの行為がこれまでに経験したことがないぐらい気持ち良すぎたせいなのか。達する際のジャンの、泣き出す寸前にも似た表情があまりにもいやらしすぎたせいなのか。今のように泣きそうな顔をされたりすると、脊髄反射の如く股間が反応してしまうのだ。これ以上ジャンの表情を見ていれば、ボトムの中に収めていられないほどに硬くなってしまう。そんな未来が容易に想像できたバクシーは、音を立てずに舌打ちをして、前を向いた。
目の前を歩く男がそんな不穏なことを考えているとも知らずに、ジャンは相変わらず月を眺めながら――そっと、鎖骨の傷を撫でた。月の姿はあの頃と変わっていないというのに。
(もう、戻れねェ、んだな――)