ふと、目が覚めた。薄暗い部屋の中で眼球だけを動かして窓の方へと視線を投げる。無いよりはまし、という程度の薄っぺらいカーテン越しに、薄っすらと明るみ始めている外の様子が窺い見えた。夜明けが近そうだ、と思ったところでようやく、いつも自分の隣で存在感を発している熱源が消えていることに気づく。
「……バクシー……?」
小さな囁きに、返ってくる声はない。手を伸ばして探ってみたシーツから温もりを感じ取ることもできなかった。
(あいつ、どこに行きやがったんだ……?)
昨夜は、寂れた住宅街の一画にある、打ち棄てられた廃墟を塒に選んだ。カサブランカを使わなかったのは、野郎がセックスをしたいと騒ぎ立てたからだ。
リリーに親父、そしてマックスが同じ屋根の下で眠るあそこでそんな真似をする気にはなれず――だが、誘いを断ることも何故かできなかった俺をここに連れ込んだ電柱野郎に、俺は死ぬほどイかされて。日付が変わっても尽きることのない性欲に、お互い突き動かされるように貪り合って。そうして、何度目かの絶頂の後――外の様子から判断するに、恐らくはほんの二、三時間ほど前のことだろう――意識を失うように眠りについたのだ。
怠い身体に鞭を打ち、ベッドの上で身を起こす。申し訳程度に掛けられていた肌掛けが裸の上半身を滑り落ちていった。その感触に、自分の身体がさらりと乾いた状態であることに気づいた俺は。
「――チッ……」
無意識のうちに舌を鳴らしていた。記憶にある限りでは、汗だのザーメンだの涎だのといった体液に塗れてベタベタだったはずの俺の身体は、どうやら意識を失った後で綺麗に拭き清められていたらしい。――あの、ヘチマ野郎の手によって。
無軌道なイカレた気狂いのように見せかけておきながら、時々、世の中の道理の何もかもを弁えているとでもいうような態度を見せる。他人への気遣いなんて腹の足しにもならねぇと言わんばかりの身勝手な行動ばかりしているくせに、まるで俺の母親でも気取っているのかと思いたくなるような甲斐甲斐しさを発揮することがある。
あの野郎のそういう、アンバランスでチグハグなところがどうしようもなく気に障って――だけど、同時に。どうしようもなく、救われても、いる。そんな自分を、俺は未だ認めきれずにいた。
畳んで枕元に置いてあった衣服――自分でそうした覚えはないから、これもまたあの野郎の仕業だろう――を身に着け。ベッドから下ろした裸足の爪先で探り当てた靴に、そのまま足を突っ込む。寝室のドアを開けると、どこか遠くの方から微かな物音――人の話し声のようなものが聞こえてきた。
(誰かと話してる、のか? ――こんな時間に?)
訝しみながら足を進めていくと、半開きになっている扉の隙間から、ランタンの灯りらしきものが漏れ出ているのが見えた。あそこは確かキッチン――といっても、かろうじて水が出るだけでガスは通っていないので、調理は持ち込んだ煮炊き用のドラム缶を使っている――だったな、と考える俺の耳に、先ほどまでよりもはっきりとした声が飛び込んでくる。
「どーよ、旨いけ? これ、起きたらジャンにも食わせてやろうと思ってんだけどサァ、アイツには塩気が足りねぇかなァ?」
ここしばらくの間に、もうすっかり耳に馴染んでしまった男の声と。それに重なる、何かを咀嚼しているような物音。そして、微かな鳴き声。いつものアレか、とすぐに腑に落ちた。
(また野良猫に餌やってんのか……)
無類の猫好きの男が、見かけた野良猫を餌付けしている姿はこれまでにも何度となく目にしている。開いていた扉の隙間から中を覗き込めば、そこには思い描いた通りの光景があった。
床の上に置かれたランタンの放つ灯りが作り出した光輪の中に浮かび上がる、いくつかの影。しゃがみ込んだ大柄な男の丸まった背中と。その男が首を伸ばすようにして覗き込んでいる先に置かれた小さな皿と。そこに頭ごと突っ込むような勢いで何かを食べているらしい、痩せっぽちの小さな猫。
「……バクシー」
小さな声で呼びかけると、驚いた様子もなくバクシーはこちらを振り返った。どうやら俺の気配は、この野郎に既に捕捉されていたらしい。
「よぅ、ジャン。まだ起きるにはちっと早いんじゃね? やっぱり俺が隣にいねぇと寂しくって寝られないってことですかね?」
「寝惚けたこと言ってんじゃねぇよ」
「んんー、安定の、つれなさ。セッッックスの時はあんなに情熱的なのにナァ――って、痛、ジョーダン、冗談だってヴァ」
ふざけたことをぬかす野郎の背中を無言で蹴り飛ばして黙らせてから、大人しくなった男の横に、俺も同じようにしゃがみ込んだ。薄汚れた小さな毛玉は、警戒心よりも空腹が上回っているのか、闖入者の存在に気づいたところで逃げようともせずに食べることに集中している。上から覗き込んだ皿の中には、スープに浸かった小魚らしきものが見えた。
「――こいつ、何食ってんだ?」
「ああ――コレ。ジャンも食うけ?」
てっきり、いつものようにビーフジャーキーでもくれてやっているのかと思っていた俺は何の気なしに尋ねる。バクシーはスッと立ち上がったかと思うとキッチンカウンターの上に載っていた皿を手に取り、それを俺の顔の脇に差し出してきた。
「俺も――って、コレ、人間も食えるやつなのかよ」
「ウン。ババアからもらった鶏ガラを綺麗に洗って、灰汁を取りながらワインと水でじっくりコトコト煮込んでな」
「お前、そういうとこ地味にマメだよな」
「ハイ、実はそーなんです、ボク、こう見えて尽くすタイプでして」
「そういうのはいいから、続けて」
「ア、ハイ。そんで、臭みのない新鮮な小魚をサッと湯通しして、さっきのスープと合わせたものがこちらでゴザイマス」
「ほーん……旨そうじゃん」
「つーわけで、ジャン=サンもおひとつどうぞ」
暗がりの中、目を凝らしてよく見れば、スープらしきものはゼリーっぽいとろみがついてふるふると揺れている。受け取った皿の縁に口を直接つけて傾けると、とろりとした塊が口の中に転がり込んできた。
「……うっま」
舌の上で凝縮された旨味が広がって、思わず感嘆の声が漏れる。再び俺の隣にしゃがみ込んだバクシーが、嬉しそうに吐息だけの笑い声を漏らし。それから、自分の皿から指で摘み上げた魚をデカい口の中に放り込んだ。耳のすぐ横で響く咀嚼音が妙にエロい、と思っちまったのは内緒だ。指の汚れを舐め取る舌の動きからそっと視線を逸らす俺の鼓膜を、悩ましそうな声が打つ。
「んー、やっぱ人間にはちょい塩っけが足りねぇかナァ」
「ちょっと塩を入れてもいいかもな。このままでも充分、旨いけどな」
「ンッフフ」
俺を見つめる銀の双眸が、嬉しそうに細められる。ついさっき、ベッドの上で俺に向けられていた、情欲剥き出しの獣じみた雄のそれとは、まるで違う。子供の成長を見守る母親みたいな、その、目つき。
(カッツォ、ケツの据わりが悪くなるぜ……)
時折、野郎が俺に向けてくるその視線が、俺は、どうしようもなく苦手で。
それなのに、どうしようもなく、安心してしまうことを。
――俺はまだ、認めたくない。