灰色の雲が垂れ込めた空から落ちてくる、銀色の針のような雨が、黒い墓石の上に降り注ぐ。墓石の前には、黒いワンピースに身を包み、右手に小さな傘を差した若い女が一人、佇んでいた。左腕の中には白い大きなユリ――カサブランカの花束が、まるで赤ん坊のように抱かれている。
石に刻まれた文字を無言のまま見つめていた女は、ひとしきりそうして満足したのか、徐にスッと腰を落として台座の上に静かに花束を置いた。それから、傘を左手に持ち替えると、空いた右手を墓石に向けて伸ばす。
黒い手袋に包まれた細い指先が、つるりとした表面に刻まれた名前を愛しむようになぞっていく。それは、彼女が生まれて初めて恋をした男の名だった。
「ジャン、カルロ……ブルボン・デル・モンテ……こんなに長かった、んだ……」
男が周囲からはジャン、あるいはジャンカルロ、と呼ばれていることしか知らなかった女は、初めて知った彼のフルネームをそっと唇に載せてみた。初めて口にしたのに不思議としっくり来るような気がして、無意識に口許を綻ばせながらそっと目を閉じる。眼裏に蘇るのは、いつでも鮮やかにその場を照らす太陽のようだった金色と――それから、その隣に必ず存在していた、ひっそりとした月のような銀色の、二つの輝き。
彼女よりも随分と年上の男は、彼女が出会った時にはもう、己の隣に置く人間を決めていた。彼女が男への恋に落ちるよりも遥か昔に、その心は既に他の人間のものになってしまっていたのだ。
「バクシー・クリステンセン……」
ジャンカルロのフルネームは知らなかった女だが、その隣に在った男の名前はとうの昔に把握済みだった。何故ならば、時折、ジャンカルロが彼に〝クリステンセン坊や〟と呼びかけることがあったからだ。男の子供じみた行動を窘める際に、揶揄うような口調で使われていた呼び名。だが、その名前を口にする際のジャンカルロの瞳がどこまでも慈しみに溢れ、大切な宝物を見つめるような光に満ちていたことをどれだけの人間が気づいていただろうか、と。そんなことを考えながら、女は小さく呟いた。
「私は、知ってた……」
それを認めたくなくて、事あるごとにバクシーに突っかかっていた女のことを、バクシーはいつでも余裕の表情で――だが、容赦なく全力で叩きのめしてくれたものだった。そんなバクシーを見て、ジャンカルロは少しだけ困ったような表情で笑って。
『おいおいバクシー、子供相手にあんまり大人げない真似すんな』
ジャンカルロの唇から零れたその言葉に、信じられないくらいに胸が痛んだことを、女は覚えている。彼らから見れば遥かに若い――幼いと言ってもいいような彼女に、ジャンカルロが目移りする可能性など欠片もない。そんなことは彼女自身にも分かっていた。それでも、彼女なりに本気でジャンカルロに恋をしていたのだ。その〝本気〟の欠片さえ伝わっていないのか、と。
泣きたくなんてないのに。彼女を庇うためにそんなことを言ったのであろうジャンカルロを責める気持ちだって決してないのに。それでも、歯牙にもかけられていない恋の痛みに、目の奥が熱くなって涙が溢れかける。
だが、次の瞬間、その痛みはあっという間に消え失せることになった。
『ハァーーー? コイツはガキじゃなくて、おめぇを狙う女ですぅ! 俺はライバルには甘い顔しねぇって決めてるんで』
その時のバクシーの口調が、いつものようなふざけたものではなかったことに、彼女は救われたような気持ちになった。自分を子供だと見くびるのではなく、一人の人間として認めて――そうして、全力で叩き潰そうとしてくる大人げのない男に、感謝したのだ。
最初はジャンカルロを巡って争う恋敵であったはずの男への気持ちが変容してしまったのがいつのことだったのかは、彼女自身にも分からない。ただ、そのことに気づかされた瞬間のことだけはよく覚えていた。
いつものように女と言い争っていたバクシーへ、ジャンカルロが何かの用事を言いつけた。不満を口にしながらも、その場に彼女とジャンカルロを残して立ち去っていく男の背中を彼女が何の気なしに見送っていた、その時だった。
『アレは俺のだから、お前にはやれねぇんだ。ごめんな?』
右の鼓膜から飛び込んできたその言葉に、驚いて振り仰いだ先には、美しい金色の瞳を柔らかく細めた男の笑顔があった。否、唇は微笑みを形作っているのに、その瞳の奥には冷たく鋭い、氷のような影が宿っている。
全く無自覚だった己の心変わりにも、それをジャンカルロが指摘してきたことにも、もちろん驚いた。だが、それ以上に。長い間、彼女を〝可愛い子供〟、〝庇護すべき対象〟としか見ていなかったはずのジャンカルロが、自分を恋敵だと認識してくれたという事実に、何より彼女は驚いて――嬉しく感じた、そのことを思い出して。
「ふふっ……」
小さく笑いを零した女は、初恋の男の名前の下に刻まれた、もう一人の男の名を、そっと指で撫でるようになぞる。
この墓石の下には、何も眠っていないのだという。二人が死ぬ瞬間は何人もの人間が目撃していたというのに、遺体は骨のひと欠片さえも見つからなかったのだ、と。それでも、二人が亡くなったという事実は覆らないのだという。
「ねぇ、地獄の住み心地はどう?」
硬く冷たい石を手袋越しになぞりながら、恋しい男に問いかける。当然のことながら、返事はない。ない、――はずだった。
不意に強い風が吹いて木立をかき鳴らし、女が左手で不安定に支えていた傘が大きく揺れた。台座の上に置かれた花束が飛んでいきそうになるのをとっさに右の手で抑え込むと、噎せ返るような花の香りに包まれる。
『バァーカか、オメーはよぅ。地獄なんざあるわきゃねぇべ。お花畑はお洋服だけにしとけっつーのォ』
「――――!!」
いやというほど聞き覚えのある、嘲るような口調で紡がれる悪態に、女は息を呑み。それから、のろのろと顔を上げた。視線の先には冷たい墓石、その背後に広がる灰色の空と、視界を遮る細い銀色の針のような雨。ただ、それだけが存在していた。
「――いるわけない、よね。……分かってる」
分かっている、のに、と。何の色も載せられていない、薄いピンクベージュの唇が小さく震える。傘を握っていた左手をそっと下に降ろすと、静かに空を仰いだ。降りしきる雨が女の顔を打ち、冷たい雫がいくつもいくつも彼女の頬を滑り降りていく。
「雨のせい、よ……」
見上げた空は灰色の雲に覆い尽くされ、太陽の姿もすっかりと隠されてしまっていた。終わりの見えない雨に打たれながら、小さく呟いて。
愛する二人の男――誰かの入り込む隙間などないほどに愛し合って、そうして共に逝ってしまった一組の恋人たち。彼らを想って涙を流す女の姿を、花の香りだけが見守っていた。