ジャンが犬になっちゃった!
一日の勤めを終えて家に帰ったイヴァンを出迎えたのは、彼と同居中の親友兼恋人の姿――ではなかった。鍵を開ける音に釣られたのか、部屋の奥からひょっこりと顔を出した〝それ〟と見つめ合うこと数秒ののち、イヴァンの口からは間抜けな声が飛び出した。
「――犬?」
イヴァンが幾度瞬きをしても、目の前の光景は変わらなかった。うろうろと部屋の中に視線をさまよわせたイヴァンは、求める相手がここにはいないことを理解して、もう一度目の前の〝それ〟に視線を戻す。雑種と思しきその子犬は薄汚れてはいたが、全身を覆う毛は金色と表現しても差し支えがなさそうだ、と気づいたイヴァンは、呻きに似た声を喉の奥から絞り出した。
「おまえ……まさか、ジャン――とか言わねえよな?」
不思議そうに首を傾げてイヴァンを見上げていた子犬は、彼の口から出てきた単語に耳をピクリと動かすと、「きゃん」と嬉しそうにひと声鳴いた。それを聞いたイヴァンの口からは、呆然としたつぶやきが漏れる。
「マ、ジかよ……」
◇ ◇ ◇
カウチに身体を投げ出したイヴァンは、足下にうずくまる子犬をじっと見つめたまま途方に暮れていた。目の前のこの生き物は本当に自分の同居人が変化した姿なのだろうか、いや、そんなことが現実にありえるはずがない。彼の頭の中では同じ問いと回答がエンドレスでリピートしている。
「いくらあいつが『ラッキードッグ』なんて二つ名がついてるからって、ホントに犬になっちまうわきゃねぇよな、うん、ねぇ。ねぇはず、だ――!」
考えに没頭している時の癖で頭の中身が口から零れ出ていることに気づかないまま、そして自分が常識への自信を喪失しつつあることにはあえて気づかないふりをしたまま、イヴァンは大きく頷いた。
「ったく、人間が犬になんてなるわけねぇっつーの。おとぎ話でもある、まい……し…………?」
〝おとぎ話〟という単語を口にしたとたん、イヴァンの脳裏にある有名な童話のエピソードが甦った。悪い魔法使いにカエルにされてしまった王子様を、よその国の王女様が人間の姿に戻してあげて結婚するという、グリム童話の一節が。
ありゃあ確か――キスで戻る、んだったっけか?
そんなことをぼんやりと考えている自分に気づいて、イヴァンは慌てて首を左右に振る。
「いやいやいやいや、何考えてんだよ。俺ァお姫様じゃねぇっつーの」
既に頭の中では子犬とジャンがイコールで結びつけられつつあることに気づかないまま、イヴァンは論点違いの言い訳をつぶやいた。しかし、頭の中では次々と妄想が繰り広げられていく。幼い頃に寝物語で聞かされた童話の中で眠ったままのオーロラ姫や仮死状態になった白雪姫を目覚めさせたのは王子様のキスだった。お姫様とか王子様というのは実際の身分のことではなく比喩的な表現であり、その人にとっての運命の相手を意味するのだと幼い彼に語って聞かせたのは母親だっただろうか、とイヴァンはぼんやり考える。
運命の相手とのキスには悪い魔法を吹き飛ばしてしまう力があるのよ、と夢見がちに語る母は自分よりも子供じみていると、幼いイヴァンは感じていた。それが今は、その母の言葉にこそ魔力があるかのように、惹きつけられてしまう。
――もし、もしも、俺がキスしてジャンが元に戻ったら……
「俺が、ジャンの運命の相手――?」
その考えが脳内に閃いた瞬間、イヴァンは床に寝そべる子犬を抱き上げ、自分の目の高さまで持ち上げていた。不思議そうにこちらを見つめる黒い瞳を見つめ返しながらそっと顔を近づける。
「カエルじゃなくて犬でも有効、だよな……?」
ナァ、元に戻んなかったらへこむぜ、オイ
祈るような気持ちで瞳を閉じたイヴァンの口が子犬のそれに触れる寸前、背後から怪訝そうな声が投げかけられた。
「何やってんだ、イヴァン?」
「う、わぁぁあああ!? ――ジャ、ジャン!?」
聞き慣れた声にあたふたと振り返ったイヴァンの視界に、紙袋を抱えたジャンの姿が入り込む。ジャンはイヴァンの手の中の生き物に目をやると、ニッと笑って口を開いた。
「お、そいつの相手しててくれたのか」
「お、おぉ……その、コイツ……?」
「捨て犬ってやつ? うっかり目が合っちまったんだよなー。一応引き取り手は見つけたんだけど、今日のとこはうちで預かるってことになってさ。一緒に住んでるお前の許可も取らないで勝手に連れてきちまって悪いな」
「あ、あぁ、いや、その、かまわないぜ」
常日頃であればジャンの勝手な行動に文句のひとつやふたつは出てきそうな場面であるにもかかわらず、妙に物分りの良いイヴァンの様子に、ジャンは蜂蜜色の瞳を細めて相手を眺めた。見透かすような視線に居心地の悪くなったイヴァンは、ジャンが手にした紙袋へと視線を向ける。
「それより、何買ってきたんだよ。夕飯か?」
「そうだった。俺たちとそいつのメシ買ってきたんだったわ。腹、減ってるだろ?」
用意してくる、と言ってキッチンに向かうジャンの背後でイヴァンがそっと安堵のため息をこぼしていると、ジャンの笑い混じりの声が飛んでくる。
「一応教えておいてやるとな、イヴァン。カエルになった王子様が元に戻ったのはキスされたからじゃなくて壁に叩きつけられたから、だぜ?」
「ああ、そうだったっけ、か、って――アァ!? てててめぇななな何言って」
「やー、おまえがそいつを壁に叩きつけてなくて本当に良かったぜ」
首まで真っ赤になって震えている年下の可愛い男に投げキスをすると、ジャンは背後から聞こえてくる絶叫をBGMに夕食の用意を始めた。