時々、今俺が現実だと思ってることは本当は単なる夢なんじゃないのかって、そう思っちまうことがある。本当の俺は今もまだあの死体安置所の中にいて。シモン爺さんの死体の入った袋の横にうずくまって声にならない悲鳴を上げ続けてるんじゃないのかって。
もちろん、俺だって暇じゃない身の上とあって常にそんなことを考えてるわけじゃない。むしろ、いつも隣にいる野郎が騒がしくしやがるおかげで、普段はそんなことを考える暇なんてないぐらいだ。
だけど、稀に訪れる、あいつのいない夜。独りきりで寝転がる、やけに広くて寒々しいベッドの中で。今のこれは全部が夢で、夢の中で目を閉じたらあのクソッタレな現実に戻っちまうんじゃないのかって。そんな馬鹿げた妄想に囚われて、俺は暗がりの中でじっと目を見開いたまま、視線を部屋のあちこちに彷徨わせる。
ガラスが無くなっちまって、ベニヤ板で塞がれてる窓。野性的なミント味の水が詰められた瓶が載ったテーブル。ソファの背もたれにぐったりもたれるみたいに引っ掛けられた、さっき脱ぎ捨てたばかりの俺の上着。床の上で静かに燃えてる竈の熾火。暗がりで赤く明滅するそいつが立てる、パチ、パチという不規則な音を聴いていると、ささくれだっていた意識が少しだけ落ち着くような気がした。
「――煙草、吸いてえなぁ……」
ポツリ、自分の口から零れ落ちた言葉に自分で驚く。煙草を吸いたいなんて、これっぽっちも思っていないのに、自分が無意識にそんな言葉を漏らしちまったことに。そして、昔だったらこんな気分の時には確かに煙草を吸ってたはずで、それはそんなに遠い過去の話じゃないってのに、今となってはもう何十年も前の習慣みたいに感じられるってことに。
それだけ、俺にとってはあいつと――バクシーと過ごした時間が濃密だってことで。その時間を何よりもかけがえのない奇跡みたいなものだと感じてるってことを今更ながらに思い知らされて。
(――会いたい……)
そんな風に思っちまったらもう最後だ。いつでも俺を安心させてくれるあの体温が、ここが世界中で一番安全な場所だと教えてくれる長い腕が、俺のどんな無茶振りも受け止めてくれる厚い胸板が、時に俺を励まし時に俺を諫めてくれるあの優しい声が眼差しが。ここには、ない。
到底寝ていられるような気分じゃなくなっちまった俺は、もぞもぞとベッドから這い出て、倒れ込むようにソファに転がった。まだ春には遠い夜の冷気がシャツ一枚の身体を容赦なく突き刺してくるが、何かを羽織るのも面倒で、ぐったりと座面に体重を預けたまま体温が奪われていくのに任せる。
(――これで風邪でもひいたら、また大袈裟に騒ぎ立てんだろうなぁ、あいつ……)
場合によっては、自分が傍について見張ってなかったせいだと悲しむかもしれない。自業自得の行いでそんな事態を引き起こしたとあっては、大いに後ろめたい思いをするのは確実で。あのでかい図体を置きどころのないような感じに縮めてしょんぼりするバクシーの様を想像すると尋常でなく胸が痛んだ。
それでもやっぱりこの場から起き上がる気力が湧かずにいる俺の耳に、静かに廊下を進んでくる微かな足音が忍び入ってくる。いつもの騒々しさとは打って変わってごく控えめなそれは、だけど、間違いなく野郎の――バクシーのものだった。その事に気づいた瞬間、俺の身体は――もうこのままソファの座面に貼り付いて二度と剥がれないんじゃないかと思えていた俺の上半身は、至極あっさりシミだらけの布地に別れを告げていた。
起こした上半身をソファの背もたれに預けるようにしながら、ぼんやりと部屋の入口を見やる俺の目の前で、そろりとドアが開かれて――梁にぶつけないように少しだけ屈められた頭が、中の様子を窺うみたいに隙間から差し入れられる。その目はすぐに俺の姿を捉えて、甘くとろりと蕩けたような光を浮かべた。
「まだ起きてたんか、ジャン――って、おめぇ、そんな格好でいたら寒いべ」
慌てたように足早に俺に近寄ってきたバクシーが、自分の着ていた上着を脱いで俺の肩に掛ける。服に残っている温もりが、じわり、身体に染み入ってきて、俺は大きく身体を震わせた。寒いと思ってた時にはほとんど震えることもなかったってのに。こうして暖かさを実感したとたんに、それまでの寒さが耐え難いようなものに感じられて震えが来るってのはどういう理屈なんだろう。
「……帰って、きたんだな」
「あ、うん。お仕事はちゃーんと片付けてきたじぇ? そのまま泊まってこいって親父には言われてたけどよぅ、帰ろうと思えば帰れるべなぁと思ったらどうしてもジャンに会いたくなっちまって……帰ってきちゃった」
「そっか」
「そうだよ。でも帰ってきて大正解だべ? おめぇこんなに身体冷やしちまって……俺が帰ってきてなかったらこのまま朝までここで寝ちまってたんじゃないんけ? そうなったら風邪っぴきコースまっしぐらだじぇ」
冗談めかした口調で、だけど目つきはやけに深刻そうな感じのバクシーが、肩から引っ掛けた上着の下にでかい手を差し入れて。その熱いぐらいの体温を分け与えるみたいに、俺の腕を何度も何度もさすってくる。目の前に晒されている剥き出しの胸筋――俺の腕をさする度に筋肉が盛り上がって動いているのが分かるそこに、俺は吸い寄せられるように額を擦りつけた。
「エッ、えーっとぉ、ジャン=サン?」
「もっとちゃんとあっためてくれよ、バクシー」
そう言って太い腰に腕を回してギュッと抱きつくと、野郎の股間が分かりやすく硬くなる。熱を持ち始めたその場所に掌を這わせながら上を向いて。こっちを見下ろす熱っぽい視線を真っ直ぐに見返しながら俺は口を開いた。
「俺にお前を感じさせてくれ」
今のこの現実こそが本物なんだって。あのクソッタレた地獄じゃなくてお前の隣こそが俺の居場所なんだって、実感させてくれ。