お互い何度達したかも分からなくなるぐらいに抱き合って、それでもまだわずかに芯の残る性器を恋人の身体に擦りつけながら。バクシーは腕の中にかき抱いた金色の頭髪にキスを落として囁いた。
「セックスのあと、こうしてると……いつも不安になる。オメェがどっかに行っちまうんじゃないか……目を離した隙にいなくなっちまうんじゃないか、って……」
「まーたソレ言ってんのかよ?」
「ジャン……どこにも、行かねぇでくれ……俺を、置いて、いかねぇでくれよ……ジャン…………」
耳許で譫言のように繰り返される自分の名前に、ジャンの唇には慈愛に満ちた笑みが浮かぶ。人前ではいつだって傲岸不遜な振舞いばかりするくせに、二人きりの時には臆病な子供に還ってしまう恋人。自分にだけ見せてくれるその顔が、何よりも可愛くて可哀想で――愛おしい。
収まらない絶頂に未だ震える腕を持ち上げ、縋りついてくる恋人の背に回し。美しい筋肉のついた広く逞しい背中を、怯える幼子を宥めるように、掌でゆっくりと撫でさする。
「こんの、馬鹿チンポ。下らねぇ心配ばっかしやがって。ずっと、一緒だ。俺たちは、ずっと……」
バクシー以外の誰にも――神や天使にすら聞かせたくない、とでも言うような、密やかな声が囁く。己の全てを赦し、受け入れてくれる恋人。その優しくて甘い声の響きに、バクシーは伏せた睫毛をそっと震わせた。
◇ ◇ ◇
ふと覚えた寝苦しさにジャンは目を醒ました。目を開けると既に高くなっている陽が窓から差し込んで、室内を明るく照らしている。胸元を見下ろしたジャンは、そこに自分の太腿ほどもある野太い腕を見出して、寝苦しさの原因を悟った。首を横に向けると、すぐ隣には腕の持ち主である己の相棒が眠っている。
(…………コイツ、何でここで寝てやがるんだ?)
首を傾げながら、重機のアームのような腕を自分の身体の上から避け。ベッドの上で上半身を起こしたジャンは、己が一糸纏わぬ全裸であることに気がついた。
「――――は?」
ぐりん、と首を動かし、まだ寝ている相棒へと視線を投げると、こちらも同様に衣服を身に着けている様子がない。一部、肌掛けに覆われていて未確認の部分はあるが、その下を覗いて確認する気にはなれなかった。
「ナンデ??」
頭の上に疑問符を飛び出させたジャンは、昨夜の出来事を思い出そうと記憶を辿る。
昨夜は、ランドルフォが珍しい酒を手に入れたからとジャンのところへ持ってきた。それをきっかけにして、このカサブランカのテーブル席で、皆――ジャンと、バクシーと、四人のカラーひよこたちと、マックス――で飲み会をしたのだ。
ランドルフォが持ってきた酒は六人――下戸のバクシーは端から頭数に入っていない――で飲めばあっという間に空になる。その後、マックスが部屋から持ち出したビールやリッカルドの持ち込んだウィスキー。リリーが仕込んだという果実酒が続々とテーブルに並んだ。周りから勧められるがままに次々とグラスを干したジャンは、久々のアルコールにすっかり気分がよくなって、そうして。
「あーーー……何となーく思い出してきたぜ」
すっかり酔いが回ってテーブルに突っ伏したジャンを、バクシーが肩に担いで部屋まで運んだ。そこまでは記憶にある。だが、そこからどうして二人揃って全裸で寝る流れになったのかは、さっぱり思い出せなかった。
「やーべぇなぁ、こんなに綺麗に記憶飛ぶなんて何年ぶりだよ。俺、めちゃめちゃ酒に弱くなってんじゃんか……」
困ったように右手で頭を掻いたジャンは、指先に触れる髪の毛がさらりとした手触りをしていることにふと気づいて手を止めた。
「アレ? 俺、昨日寝る前にシャワー浴びた?」
昨日も一日きっちり働いて、酒を飲み始める頃にはそれなりにくたびれ、薄汚れていたはずだが。今は多少の寝汗こそかいているものの、全身小ざっぱりとしている実感がある。だが、己の足で歩くこともままならないような状況で、自力でシャワーを浴びたとは考えにくかった。そうなると、バクシーが介助役を務めて自分を洗ってくれた、という可能性が一番高そうだった。
(もしかして吐いちまったんかな?)
担がれている状態で吐いたのだとしたら、自分はおろか、バクシーの衣服も汚す羽目になったことだろう。二人分の衣服と、ジャン。そしてバクシー自身。汚れ物を全て纏めて洗ったバクシーが、ジャンをベッドに運んだあと疲れ果ててそのまま一緒のベッドで寝てしまった。そう考えると、現在の状況の何もかもに納得がいく。
結構な量を飲んだはずなのに、心身ともにやけにすっきりとした感覚があるのもそのせいなのかもしれない。溜まっていたものを思う様吐き出したあとのようだ、と。そんな風に考えて、やらかしたなぁ、という気分で天井を見上げる。
「どちゃくそ迷惑かけちまったんじゃねぇのか……謝った方がいいんかな……けど、何も覚えてないのに口先だけで謝るっつーのも、何か違うよな……」
悩むジャンは、無意識の内に胸元のリングを握り締めた。物心ついた時から、一時的な例外を除いてはずっと肌身離さず身に着けているリングの、馴染んだ手応え。
「――――?」
幼い頃から変わらぬその感触が何故かひどく懐かしく感じられて、ジャンは少しだけ首を傾げ。だが、次の瞬間にはその違和感を綺麗さっぱり忘れてベッドから脱け出した。
「とりあえず、服でも着るかぁ」
腰の怠さを気に留めることもなく、大きくひとつ伸びをして。ソファに投げ出してあった衣服を身に着けていく。シャツの釦を留める指の先、色濃く残された情交の痕には、ついぞ気づくことのないまま。
◇ ◇ ◇
「おーいバクシー、そろそろ起きろよ?」
深い眠りから意識を引き上げる愛しい恋人の声に、バクシーは銀色の睫毛を震わせて瞼を開いた。開けた視界には覗き込むように自分を見下ろすジャンの姿が映し出される。真夏のヒマワリのような明るい金髪と、蜂蜜みたいに舐めたら甘そうな金色の瞳。眩しさに目を細めつつ、バクシーは長い腕を伸ばした。そのまま腕を掴んで引き寄せれば、いつものように自分の頭を抱きかかえたジャンが甘いキスを落としてくれる――はずだった。
だが、ジャンはそれを避けるようにするりと身を引いてしまう。自分に向けて伸ばされるバクシーの手などまるで視界に入っていないかのような動きに、バクシーは目を瞬かせた。まだ半分ほど寝惚けていた意識を違和感がノックする。
「もうリリーに飯の用意頼んであっから、俺は先にホールに行ってるぜ?」
オメーも早く来いよ、と笑って言うジャンの胸元で何かが光った。それを目にし――それが〝何〟であるのかを理解したバクシーの両眼が、驚愕に見開かれる。
「ジャン、それ、そいつ……」
かつて自分がジャンから奪って飲み込んだ、ジャンの母親の形見のリング。今もまだ自分の腹の中にあるはずの、それ。それが何故かジャンの首にかけられている。
「――――ん? どした、変なツラしやがって」
不思議そうに自分を見下ろすジャンの顔を茫然と見上げたまま。バクシーは、世界が壊れ始める音を聴いた。
◇ ◇ ◇
ロックウェルの廃ビルの一室、ドッグ・グレイブのアジトとなっている部屋。そこでヴァルターは――DGの頭脳担当である男は、一日の大半を過ごし、事務だの経理だの通信だの、やれることは何でも引き受けこなしている。
窓際のデスクで大量の書類を処理しながら、ヴァルターは部屋の中央に置かれたソファにちらりと視線をやった。その玉座には今、彼の崇敬するボスがだらしなく寝そべっている。見慣れた、いつもの光景――のはずだが、そこに少しの違和感を感じたヴァルターは内心で首を傾げた。
(何だ――何が、おかしい……?)
部屋の中、視線を巡らせるが何の異常も発見できないまま、再びボスへと視線を戻したヴァルターは。ジャンが寝転がる三人掛けのソファの向かい側、二脚置かれた一人掛けのソファの片方に腰かけた男の姿を見て。その男の背中が自分の方へと向けられている、そのことに違和感があるのだと気づく。
(――背中が珍しい、ってわけじゃない。ただ、この部屋にいる時のバクシーさんは、いつも……)
事務所にいる時のバクシーの定位置は、三人掛けのソファに座るジャンの隣か、或いは、背もたれのすぐ後ろ――ジャンの背中を護っているかのような場所だ。ジャンが腕を伸ばせばすぐに触れられる、そういう位置に陣取っているはずのバクシーが、今日はその距離にいない。
彼ら二人と知り合った当初は、その距離の近さに驚いていたはずのヴァルターだったが。二人と共に過ごす時間が長くなるにつれて意識を書き換えられてしまっていたことを、今この場で初めて自覚させられていた。
(喧嘩をなさって、距離を置いている――って雰囲気じゃないな)
バクシーが何事かを話しかければ、ジャンはそれに笑顔で応じている。その表情はいつも通り朗らかで、バクシーに対して何か含むところがあるようには思えない。
(僕の気のせい、だろうか……)
たまたま、今日はバクシーがいつもと違う場所に座っただけ。それだけの話だ、と己を納得させようとしたヴァルターだったが、違和感は薄れるどころかいや増す一方だった。
「あー、何か久しぶりに煙草喫いてぇ気分になってきたな……ヴァルター、お前、今煙草持ってる?」
「えっ? あ、はいっ!」
ボスからの珍しい問いかけに、ヴァルターは弾かれたように反応する。デスクの一番上の引き出しを開け、そこに入れている煙草と紙マッチを取り出した。忠犬の如き部下がそれを手に主人の許へ駆け寄るよりも先に、ソファから立ち上がったジャンがデスクの前までやってくる。
差し伸べられた手に煙草を渡そうとデスクから顔を上げたヴァルターは、見てしまった。ヴァルターの視界を塞ぐように立つジャンの身体の向こう側。一人掛けのソファに座ったまま上半身だけを捻ってこちらを振り返るバクシーを。ジャンの背に向けられた、物問いたげな銀色の瞳を。
(気のせいなんかじゃ、ない……)
いつものジャンであれば、このような視線を向けられて気づかないなんてことも、それを無視して受け流すようなことも、しない。自分のボスが驚くほどに勘が鋭く、人の感情の機微に聡いことをヴァルターは身に沁みて知っていた。
「ジャン、さん……」
何かあったのか、と。問いかけるために開いた唇は、だが、それ以上の言葉を発することを許されなかった。銀色の双眸から放たれた視線がヴァルターへと突き刺さる。そこに込められた『余計なことは一切言うな』というメッセージを正確に受け取ったヴァルターは。
「何だよ、ヴァルター?」
自分の呼びかけに小首を傾げて問いかけてくるボスを前に視線をうろうろと彷徨わせ。
「いえ、その……安物で、申し訳ないです……」
「ハハ、んなこと気にしねぇって。サンキュな、ヴァルター」
いつも通り大らかなジャンの調子に――明らかに不審な己の挙動を咎めようともせず笑って受け流すその姿に、ヴァルターはうっすらと戦慄を覚えた。
◇ ◇ ◇
カサブランカのホールで朝食を取ったあと。まだ湯気の立つコーヒーのカップを前にしてジャンはくつろいでいた。背中を丸め、テーブルに顎を預けただらしのない格好は部下たちには見せられたものではない。そのジャンの顔の脇に、ドン、という音を立てて何かが置かれた。
「わっ、な、何だぁ!?」
反射的に驚きの声を上げたジャンは、その〝何か〟が鋭利な刃物であることを認識し、更なる驚愕を得て椅子から転げ落ちそうになる。
「と、と……危ねぇ……」
かろうじて体勢を立て直したジャンは、その刃物を置いた人物へと視線を遣った。椅子に座っているジャンとほとんど視線の高さが変わらないぐらいの小柄な老女。ここ、カサブランカの主であるリリーは、相変わらずの無表情でジャンの視線を受け止める。
「リリー、驚かさないでくれよ……」
「フン」
ジャンの苦情申し立てをリリーは鼻息ひとつで受け流す。ギャングのくせに肝の据わらない男だ、とでも言わんばかりのその態度に苦笑し、ジャンは置かれた刃物――フクロナガサへと視線を戻した。
「ワーオ、こいつすげぇ切れ味よさそう……」
「気をつけないと指の一本や二本簡単に持ってかれちまうよ」
「げ、そういうのは早く言ってくれよ」
戯れに刃先へと伸ばした指先をリリーのひと言でスッと引っ込め、ジャンは不思議そうに小首を傾げる。
「で、こいつは一体何なんだ? これ使ってお手伝いしろってこと?」
ジャンからの問いかけにリリーは静かに首を左右に振った。
「そいつをのっぽの坊やに持ってってやんな。昨日、山刀を折っちまったって言ってたからね」
「のっぽの、坊や……」
リリーの言い種に咄嗟に思い当たらなかったジャンはほんのわずかの間、思考をフリーズさせる。だが、すぐに答えを導き出し、ジャンは小さく吹き出すように笑った。
「リリーにかかったら、あいつも〝坊や〟かよ。敵わねぇなぁ」
「………………」
屈託なく笑うジャンをリリーはニコリともせずに無言で見つめ返す。いつもと変わらぬ無表情の奥に、普段とは違う何かを感じ取ったジャンは笑いを引っ込めた。
「? 何だい、リリー?」
ここ数日のジャンと、その相棒を務める男の様子を間近で目にしていたリリーは、それを口にするかどうかをしばらく悩んで。だが、憔悴していくかつての養い子の様をこれ以上見ていることを忍びなく感じてしまった老女は。
「…………言いたいことがあるなら、溜め込んでないで、はっきり言ってやんな」
「………………?」
何を言われているのか分からない、と書いてあるようなジャンの表情に、リリーは己の思い違いを悟って。そうして、何かのっぴきならない、自分たちの力ではどうにもならない事態が起こって――進行してしまっていることに、思い至る。
「いっつもアドバイスしてくれてサンキューな、リリー。何かあったら、ちゃんと相手に言うようにするよ」
彼女の言葉を人間関係全般に対するアドバイスだと勘違いし、ジャンは朗らかに笑って礼を告げる。それから、渡された刃物を一緒に置いてあったシースに入れ、それを持って椅子から立ち上がった。
店の扉から出て行く背中を、リリーは絶望と共に無言で見送った。
◇ ◇ ◇
リリーから預かった得物を片手にジャンが向かったのは、一軒の民家だった。裏手を覗き込むと、崩れ落ちた物置小屋を前に立ち話をしている二人の部下を発見する。長身でシャツの胸元が弾けそうなほど厚い胸板の持ち主と、その横に並ぶと子供のように見えてしまう小柄で細身のアジア人――リッカルドとテシカガ。彼らの今日の仕事は、老朽化して崩れてしまった民家の物置小屋を再建することだった。
碌な仕事がないせいで若者たちが他所へと流出してしまった街、ロックウェル。この街で再起を図るDGの面子は、街に取り残されたカタギの老人たちの困りごとに手を貸すことも少なくない。それは彼らのボスであるジャンカルロの意向――カタギさんは大事にするべきだ、という――を汲んだ上での行動だ。
カタギさんの上前をはねるのが自分たちの仕事なのだから、飯の種は大事にしなくては。というのがジャンの言い分だが、それが多分に露悪的な言い種であることを部下たちは理解している。彼らのボスは自分の得になろうとなるまいと、困っている人間――特に老人や子供を見捨てることのできない性質だった。そして、そんな人間だからこそ自分たちがここまで心酔しているのだ、という自覚もある。
「よぉ、二人ともご苦労サン、だぜ」
調達してきた木材を積み上げ、これからの段取りについて話し合っていた二人は聞き慣れた声に弾かれたように振り返り。そこに、想像した通りの人物の姿を見出して表情を緩ませた。
「ジャンさん、お疲れさまです」
「こんなところまでいらっしゃるとは……どうかされましたか、ジャンカルロニシパ」
「リリーからの預かりモン、持ってきたんだ。リッカルドに」
「マダムから……ですか?」
心当たりのなかったリッカルドが首を傾げる。その鼻先に、ジャンは預かってきたフクロナガサをシースごと突き出した。
「ナイフ折っちまったんだろ? これを代わりに使えってよ」
ジャンの言葉に、リッカルドは隣にいたテシカガの顔を思わず窺い見る。テシカガの表情に動揺は見られない。ただ、細い切れ目のような両眼がリッカルドをじっと見つめ返していた。恐らくは自分と同じことを考えているであろう仲間の表情に、リッカルドは浅い呼吸を繰り返して動悸を宥める。
刃物を折ったのは自分ではない、と。言うだけならば簡単なことだった。だが、そのひと言を口にしてしまえば、何かが確実に壊れてしまう。
何も言えないまま、リッカルドは差し出されたフクロナガサを受け取ってしまった。ずしり、と。実際の重量以上の重みが圧し掛かってくる。
「刀自リリーが、それをリッカの旦那に、と?」
言いあぐねるリッカルドを見かねたのか、テシカガがジャンに問いかける。その言葉に、ジャンは記憶を辿って首を小さく傾げた。
「んー? 確か〝のっぽの坊やに〟っつってたぜ? 一瞬誰のことか分かんなくて悩んじまったけど、リリーにかかったら俺らなんてみんな〝坊や〟だわなぁ」
ああ、と。腹の底から絶望が込み上げてくるのを感じて、リッカルドは胸の裡で嘆きの声を上げた。ここ数日、じわじわと広がっていた違和感の正体が。目を逸らし、見つめないようにしていた、それ、が。今この場で己の目の前に引きずり出されたことを実感する。
何の含みも感じさせないジャンの笑顔と、そのジャンを黙して見守るテシカガの凪のような横顔。どちらも見ていることができず、リッカルドは目を閉じた。
「あれ? ジャンさんもこっちに来てたんすか?」
不意に、その場の重苦しい空気を全て吹き飛ばしてしまうような、明るい声が辺りに響き渡った。目を開けたリッカルドは、右手に持ったクローハンマー――自分が頼んで持ってきてもらったものだ――を振りかざすようにしながら駆け寄ってくる仲間の姿を見て。知らずうちに大きく息を吐き出し、肩の力を抜いていた。
「何だよランディ、そっちもお使いか?」
「ちょ、その言い方はヒデェっすよ! 子供じゃねぇんですから――って」
ジャンの言い種に反射的に抗議の声を上げたランドルフォは、だが、すぐにジャンの口ぶりから何かを察する。
「〝も〟ってことは、もしかしてジャンさんも誰かに頼まれてここに来たってことっすか?」
「おう。リリーに頼まれてな、ナイフ届けに来たんだ」
昨日折れちまった、って聞いたからよ、と。応じるボスの言葉に、ランドルフォは不思議そうに首を傾げた。その表情を見た瞬間、嫌な予感に囚われたリッカルドはランドルフォの口を塞ぎたい衝動に駆られる。だが、大男が行動を起こすよりも先に、言葉は放たれてしまった。
「昨日刃物折ったのって、バクシーの兄貴っすよね? 兄貴、今日はこっちには顔出さないんじゃねぇっすか?」
何も気づいていないランドルフォの言葉に、ジャンは金色の睫毛を一度、二度、とはためかせ。血色のいい薄紅色の唇が緩く開かれる。
「バクシー…………って、誰だ?」
困惑した表情で自分たちを見つめるボスの胸元。
――金無垢のリングが、誇らしげに輝いた。