朝から俺は緊張していた。俺の記憶が確かなら、今夜、事が起きる。食堂で騒動が起こって死体が出れば前回と同じ手順で。そうならなければ、頃合いを見て独房を脱け出して。火事を起こした後は幹部連中を独房から連れ出して通用口まで誘導したら、一人だけ居所の知れないジュリオを捜すフリをしてあいつらと別行動を取って。そうして、バクシーとその部下たちが脱獄するところに合流する。そのために必要になるであろうブツも一通り手元に揃った。
後は、夜を待つだけだった。それまでは、いつも通りの顔でいつも通りの行動を。誰にも不審を抱かせることのないように振舞わなくちゃならない。
作業に向かう囚人の輪から抜け出した俺は、何か用事を言いつけられた雑役のフリをしながら目的もなく歩いていた。このムショの中で集めるべき情報も手に入れるべき道具も最早存在しないが、幹部たちにそれを知らせるつもりはない。
それは前回と同じように事を進めたいから、というのもあるが。
(――あいつらを完全に信用してるわけじゃねぇから、ってのもある、よな……)
あいつらが望んで俺を置いていったわけじゃなかったことは知っている。それでも、あいつらに置いていかれたことによって俺がどれほど碌でもない目に遭わされたか、どんな思いをする羽目に陥ったか。
テメェがザーメンを拭き取った後のティッシュよりも価値のねぇゴミクズみたいな存在だと、そう思わされたあの時の屈辱感を。俺をそんな立場へと追いやった奴らへの煮え滾るような憎悪を。今もまだ、心の何処かが覚えている。
(よりにもよって、自分をその〝碌でもない目〟に遭わせた張本人と一緒に生きていきたくて、こうして必死に足掻いてるってのが、我ながら意味分かんねぇけど……)
本当に何でこんなことになっちまったんだろう。アレをもう一度繰り返すのかと思うと、正直ブルッちまってる部分もある。自分の肉を噛み千切って食っちまったケダモノに、更にレイプされるなんて、そう何度も経験したいもんじゃねぇ。
何も分からないままにやられちまったあの時は未知の恐怖で怯えて暴れたが、何が起こるのかを知っている今は、知識が逆に恐怖を煽ってくる。無意識に鎖骨を――CR:5のスミの入っている辺りを手でなぞっていた俺の腕には、いつの間にか鳥肌が立っていた。改めて考えてみても、生きたまま食い千切られるなんて正気の沙汰じゃねぇ。
それでも、他の道に進みたいとは思えなかった。
◇ ◇ ◇
当て所なくふらふらと歩いていた俺は、いつの間にやら錆だらけのスクラップが積み上げられた屑鉄の山の見える位置へとやってきていた。この向こう側、スクラップ置場にはイヴァンとジュリオの二人がいるはずだが、連中にはこれと言って用がない。
場所を変えようと踵を返しかけた俺の目に、視界に、何処かからフラフラとやってきた男の姿が飛び込んできた。まるで虫でも追いかけてるみたいに、長躯を屈めて地面を眺めながらうろつくその男。追っている何かに夢中になりすぎてお留守になった口元から涎を滴らせているそのアタマのイカレた野郎に、看守が鬱陶しそうな表情を見せる。それでも追い払おうとする素振りを見せないのは、あの状態のバクシーに何を言ったところで通用しないと分かっているからだろう。弱い立場の囚人を憂さ晴らしに殴ったり蹴ったりするようなクソッタレた看守も少なくないが、どうやらこいつはそういった手合いとは違うらしい。
虫を追って右へ左へゆらゆら動くイカレた男から目が離せずにいる俺の視界の中で、地面を覗き込むように丸められていたバクシーの背が前触れなくにゅうっと伸び上がった。ぬるりと首が動いて、野郎の視線が屑鉄の山に投げられる。
「あ、コラ! そこに入るな、キチガイめ!」
ようやっと制止の声を上げた看守を無視して、バクシーは奇声を上げながらスクラップの山へと駆け出していく。その背に向けて銃を構えかけた看守は――だが、発砲することなくそれを下ろして舌打ちをした。やっぱりこの看守は先刻俺が睨んだ通り、無闇に囚人に暴力を行使するタイプじゃなかったらしい。恐らくはバクシーも俺と同じような考えでそれを見定めて行動を起こしたんだろう。
(――カッツォ、今、そこにはジュリオがいるはずだってのに……)
どんな目的があってスクラップ置場に侵入したのかは分からないが、バクシーはジュリオがここにいることを知っているんだろうか。知らずに潜り込んだのならうっかり鉢合わせちまう可能性だってあるだろう。焦燥に駆られて奴の背中を追う俺の視線と、こちらを振り返った看守の視線が出合った。
「おい、おまえ! アイツを探して連れ戻せ。ここに連れてくるんだ、いいな!?」
直立不動で敬礼してその命を引き受けた俺は、急ぎ足でスクラップ置場の山の奥へと足を運んだ。錆びた鉄の臭い。腐ったようなオイルの臭い。閃光の瞬く屑鉄の山の間を縫うように進んでいく。バクシーが何を目当てにここに侵入したのかを考えながら辺りを見回してみるが、バクシーはおろか、ジュリオの姿も見当たらなかった。俺がバクシーを見逃すはずはないし、ジュリオの長身だって見落とすには目につきすぎる。それなのに、見渡せど二人の姿は一向に見つからない。
(クソ、どうして……どこにいるんだよ)
「おい、こっちだ」
もどかしさに舌打ちしかけた俺の鼓膜をイヴァンの声が打った。期待して振り返った俺の視界には、だけどイヴァン一人の姿しか映らない。どう見ても仲が良さそうには思えない二人だが、このスクラップ置場で見かけた時にはいつもイヴァンのすぐ近くにジュリオがいた。今回もそうなんだとばかり思っていた俺は内心で落胆する。
「イヴァン! ジュリオは一緒じゃねぇのか?」
「ん、その辺に……あれ、さっきまでそっちで作業してたんだがな。……ションベンにでも行ったんだろ」
「そうか……なら、アイツは見てねぇか?」
「アイツ? って誰だよ」
今のバクシーについて何と説明すればイヴァンにすぐに伝わるものかと考えながら口を開きかけ。だが、口から言葉が出るよりも先に目が視界の端で動く何かを捉えていた。機関車から吐き出された煤煙が漂っているスクラップの山の陰から、バクシーがフラフラとよろめくような足取りで現れる。一人だ。まだ、ジュリオとは遭遇していなかったらしい。
「へ、へへ……。しゅっしゅ、ぽー、ボー」
「何だァ? ありゃ……クソ、気持ち悪ぃ」
機関車の口真似だろうか、何事かを囀るバクシーを見てイヴァンが反吐でも出そうな口調で吐き捨てる。そういえばデイバンで会った時にもこいつはバクシーのことをキモい奴呼ばわりしてたっけ。
(見慣れりゃそんなに気持ち悪いってこたねぇんじゃねぇかな。あれで結構可愛かったりするんだが……)
反射的に内心で反発が生じたが――まあ、確かによくよく見てみれば今のバクシーはどこからどう見ても気色の悪いイカレ野郎だった。敢えてそう見えるようにしてるんだろうから当然っちゃ当然だ。
「悪いイヴァン、俺、あいつを看守のとこまで連れてかなきゃならねぇんだ」
「あぁ? おう……おめーもゴクローサンだな、あんなのの面倒任されるとか」
同情の入り混じる呆れたようなイヴァンの声を背に、俺は急ぎ足でバクシーに歩み寄る。
「あー、じゃぁン。へへ。なあ、なあ、あれ」
近づく俺に気づいたバクシーは、のろのろと手を伸ばして俺の囚人服の裾を掴んできた。こいつから俺に触れてくるなんて珍しい。この状態のバクシーとはこれまでに何度か接触していたが、いつも手を伸ばすのは俺の方からだったんで妙に新鮮で――嬉しいようなくすぐったいような気分になる。
「ジャァン、あれ、きしゃ、きしゃー。あれ、見ようぜ、みよ」
竿にかかった魚みたいに、バクシーが掴んだ服をピクピクと引っ張る。本当にそれが目的だったっていうんなら付き合ってやりたいところだが、まさかそのためにここに潜り込んだってことはねぇだろう。あの機関車を眺めたところでバクシーの目的の役に立つとは思えないからだ。機関車が目当てだったと俺や周囲に思わせたいだけなら、もう目的は達したはずだ。
「ダメだ。看守のセンセイが待ってんだよ。早く戻らねぇと」
「きしゃー」
ジュリオとかち合っちまう前に一刻も早くここから離れたいという一心でバクシーを急かす。俺の服を掴んでいるのとは反対側の腕を掴んで促せば、未練がましそうに機関車を見遣りはするものの、案外素直に従ってくれそうな雰囲気だったが。
「――――――!!」
背筋を駆け抜ける悪寒に、剥き出しの刃物を無防備な項に押し当てられたみたいな殺気に、俺の動きはピタリと停まっていた。
「ジャン、さん……?」
(――ヴァッファンクーロ! 遅かったか……)
油を差し忘れた機械人形みたいにぎこちない動きで後ろを振り返る。勘違いであってほしいという俺のささやかな願いはいともあっさりと裏切られ。そこにいたのは見間違えようもない、俺がこの場で誰よりも遭遇したくないと思っていた長身のイケメン――ジュリオその人だった。俺とバクシーの姿を同時に視界に納めた男の眼は隠す気のない警戒心にギラギラと輝いていて――ロックフォート港でこいつと対峙した時のことを思い出しちまった俺の膝からは思わず力が抜けそうになる。
「……ジャン、さん、どうして、こいつが、ジャンさんを知って――ジャン、さんも……何でこいつを……」
「あ、ああ。前にたまたま、名前教えてやったことがあって、だな……」
間違いなく引き攣っちまってるだろう顔で俺が口にする言い訳なんて、まるで耳に入っていないかのように。険しい表情を浮かべたジュリオは長い脚を動かして俺に歩み寄ってくると、痛いぐらいの力で俺の腕を握り締めた。あまりにも強い力に、俺は思わず掴んでいたバクシーの腕を放しちまう。
「痛ッ……」
「……いけ、ません。こいつは……」
「じ、……じゃぁ……ん?」
「きさま……なんの、つもり……だ」
(――ああ、やっぱり……)
真っ直ぐにバクシーへと向けられる視線と殺意。それを見て、俺はかねてからの疑念を確信へと変える。やっぱりこいつは、ジュリオの奴は、バクシーの正体に気づいている。頭のイカレた弱々しいキチガイの姿は擬態だと見抜いている。
「――さっきも、見つけて……始末、してしまおうと思ったら逃げられて……」
「――――!!」
どうやらこのスクラップの山の中で、バクシーは既に一度ジュリオに見つかっていたらしい。バクシーがたまたまついていたのか、その場に人の目が多かったせいなのか、それともジュリオの殺気に気づいて上手いこと逃げ果せていたのか。一度は難を逃れたはずなのに再び見つかっちまうなんてアンラッキーこの上ない。
「う……うひ、ひ……」
ジュリオに睨み据えられたバクシーは哀れな虫けらみたいに地面にうずくまり、この場からいなくなってしまいたいとでも言うように、背中を丸めてそのでかい身体を小さく小さく縮める。その哀れな姿に俺は思わず足を踏み出し――まだ俺の腕を掴んでいたジュリオの手を振り払って。その氷のような視線を自分の身体で遮るようにしてバクシーを背に庇って、いた。
「どう、して……ジャンさん……気づか、ないのですか。こいつは……ばかの、フリをして……あなたを、騙してる、のに……」
核心に迫るジュリオの言葉に、俺はそれが少し離れた場所にいるイヴァンの耳には届いていないことを祈りながら。うっかり気を緩めればすぐにでも萎えて崩れ落ちそうになる脚に力を込め、地面をぐっと踏みしめて持ちこたえる。
「さっきこいつを始末するとか何とか言ってたが――勝手に死人を出されちゃ困るんだよ。それにここであんたに騒ぎを起こされたりしたら、俺の計画に支障が出る。――もしかして、俺の足を引っ張って命令を遂行させないようにするのがあんたの目的なのか?」
本当はそんなことはないと――むしろ、ジュリオはギャングに騙されている俺を救おうとしているだけなのだと、気づいているくせに。俺は平然とジュリオを咎める言葉を口にした。実に理不尽で不本意であろう言いがかりをつけられたジュリオが言葉を詰まらせる。
「……! ……お、俺は、そんな、つもりは――」
「そんなつもりがねぇって言うなら、俺が頼んでもない余計なことは一切しないでくれ。迷惑なんだ」
「めい、わく……その、すみ、すみませ、ん……俺……」
精一杯の冷たい表情と口調で言い放った俺の言葉に、どういうわけだかジュリオは飼い主に粗相を叱られた犬みたいにしょんぼりと落ち込んだ様子を見せた。今にも泣き出しそうな表情に俺は戸惑いを覚えたが、全身から噴き出してバクシーに突き刺さるみたいだったジュリオの殺気が霧散したこのタイミングを逃すわけにはいかない。
「おい、行くぞ。いい加減戻らないと俺まで看守に怒られちまう」
「ひ、ひぃ……うぁ……」
怯えて地面にうずくまっていたバクシーの二の腕を掴んで引き上げるように立ち上がらせると、俺はその背中を急かすように押して足を進ませる。気の変わったジュリオがいきなり襲いかかってきた時に備え、バクシーに寄り添ってできるだけ身体を離さないようにしながら歩いた。今もまだ背中にジュリオの視線が突き刺さっているような気がして、後ろを振り返ることはできそうにない。
(――カッツォ、今頃になって震えがきやがった……)
バクシーの背を押している自分の手が小刻みに震えているのが分かる。スクラップ置場の出入口を目指してせかせかと動く脚も同様だった。この震えはバクシーにも伝わっちまっているだろうか。だとしたら実に情けなくて格好悪いことこの上ないんだが。
スクラップ置場の出入口が――そこに立つさっきの看守の姿が目に入って、俺はこれでようやくジュリオの魔の手からバクシーを逃がしてやれたんだと感じて深く息を吐いた。
「看守のセンセイ、入り込んだ野郎を連れてきました」
「よし、そこで止まれ。身体検査をする! 前ならえだ。脚も広げろ」
「ハイハイ」
近寄ってきた看守がまずはバクシーのボディチェックを始める。警棒で全身をまさぐるように撫で回してから、嫌そうな手つきで野郎のポケットを引っ繰り返し――
「う、わぁぁぁ!?」
いかにもやる気なく怠そうに任務を遂行していた看守が、急に奇声を上げて後ろへ弾かれるように跳び退いた。理由は簡単。引っ繰り返されたバクシーのポケットから、地面に向かってバラバラと零れ落ちる幾つもの虫――ゴキブリの死骸が飛び出してきたせいだ。
「ここここ、この、この野郎!! 何てモンを入れてやがる……!!」
「あぅ、あ、あ……おれ、おれぇ、の……」
「クソ、さっさと拾え!!」
「ひぃ……しぃま、しぇん……」
気味の悪いコレクションをそのままここに置いていかれちゃ困るってことなんだろう、目ん玉をひん剥いた看守が金切り声を上げる。怒鳴り声と同時に警棒でケツを叩かれたバクシーは、不器用な手つきで地面に撒き散らされた虫の残骸をあたふたとかき集めた。
「そいつを連れて早く行け!」
拾い上げた虫の死骸を両の掌に載せたバクシーから嫌そうに視線を逸らしながら、看守が言う。俺の身体検査がまだ済んでいないことは忘れているのか、或いはそんなことはどうでもいいから一刻も早くバクシーにこの場からいなくなってほしいのか。下手なことを言ってとばっちりを食らっても面倒なので、俺はぺこぺこと卑屈に頭を下げながら、バクシーの服を引っ張るようにしてその場から逃げるように立ち去った。
「ジャァン……」
誰もいない手洗場の近く、建物が陰を作っている辺りまで来たところで、バクシーがおずおずと俺の名を呼びながら囚人服の裾に触れてくる。
「……あいつには……ジュリオには近づくなって、言ったじゃねぇか……!」
「ごめ、ごめんなしゃ……」
「クソ……肝が冷えたぜ……」
急激に気が抜けてその場でしゃがみ込んだ俺に倣うように、バクシーも隣に座り込んだ。その手はまだ俺の服を掴んでいて――掴んでいるように見せかけながらこちらのポケットの中を探るように動いていることに、俺は気づいた。気づいて、しまった。
腕力とか瞬発力とか機動力とか、そういうフィジカル面は俺よりもバクシーの方が圧倒的に優れていると思うが。鍵開けとか掏摸の才能は――小手先の器用さならば、俺の方が数段上だと思う。だから、俺のポケットをさり気なく探る野郎の手に俺は気づいちまった。気づいただけならまだよかったのに、危機を脱して気の緩んでいた俺はその手の動きにうっかり反応しちまった。
「――あ……」
俺のポケットから何かを抜き取ったバクシーの手を反射的に掴んじまった俺の口から、間抜けた声が漏れる。バクシーの手にはいくつかのピンが――スクラップ置場から持ち出したであろう部品が、握られていた。俺と目を合わせた野郎のツラが、しまった、って表情になる。バクシーにとっても思わぬ事態だったんだろう、仮面が剥がれ落ちかけているその表情に。
(――この野郎、俺を利用しやがった……)
あそこからこれを持ち出すためには看守のボディチェックをくぐり抜ける必要がある。バクシーは俺にこれを持たせることで、まんまとそこを乗り切ったのだ。今回のように上手く行けば儲けもの、仮に見つかっちまっても実際のブツを持っていたのは俺なのだから、懲罰を受けるのも当然俺で、バクシーに累は及ばない。もしかしたら最初から――目の前でスクラップ置場に入り込んだバクシーを連れ戻す役目を俺が担わされた、そのことすらこいつの計算の裡だったのかもしれない。
「ハ、ハハ……」
あの時、スクラップ置場で珍しくバクシーの方から触れてきたことを喜んでた俺がどれだけ間抜けだったことか。ただ、ブツの隠し場所として利用されただけだってのに。
こいつはどこまでも強かで逞しくて……どうしようもなくバクシーそのものだということが、俺は無性に嬉しくて、おかしくて。
「カッツォ、クソ、やられた……」
笑いの収まらない俺をどうしたもんかって表情で見ているバクシーの手を――まだ掴んだままだったそのデカい手を俺はそっと放して。
「――俺は何も見なかった、ぜ」
バクシーがどんなツラをしているかは見ないようにしながら、それだけを口にして。俺は萎えていた脚に気合を入れて立ち上がると、何も言わず座り込んだままのバクシーを残してその場から立ち去った。