シモン爺さんを食堂から遠ざけることはできた。そうなると、今後の状況は俺の知るものとは変わっちまうわけで。あの食堂で、爺さんの代わりに犯人として炙り出される野郎は現れるだろうか。現れたとして、そいつは上手いこと死体になってくれるだろうか。死体が出れば、そいつを安置所まで運ぶ役目を担って、後は以前と同じように事を進められるはずだが。
そうならなかった時にどう動くかを考えながら、俺はコネ持ち囚人の群れに混ざって、手洗場の周辺をだらだらと掃除する。そこから少し離れた場所には、作業場に割り振られるのを待っている連中が溜まっていた。
(――まるで家畜の群れ、だな……)
今のマジソンのクソッタレた環境に打ちのめされているんだろう、不景気なツラを並べた連中を眺めるとはなしに見遣っていた俺の耳に――そして、目に。看守たちが見ている側に壁を作るようにして立つ男たちの、その裏で。
「ぐ……ぐへ、ええ……。ひ、ひいっ……」
GDギャングたちに囲まれ、ボロ雑巾のように足蹴にされるバクシーの姿が。そいつの上げる惨めな悲鳴が。肉の詰まった身体を容赦なく痛めつけた時に発生する、重たく響く本気の暴力の音と共に飛び込んできた。
「――――ッ!!」
思わず息を呑んだ俺の耳に、口々にバクシーを罵る男たちの声が飛び込んでくる。
「てめえ、臭えんだよこの! ゴキブリが!」
「バクシー様よお、てめえなんざ身内でもなんでもねえ」
罵った野郎の一人が――バクシーの腹心であろう男が、靴の爪先をバクシーの腹にめり込ませる。遠目に見ていても分かる、演技じゃない、本気の蹴りだ。バクシーのあの、鋼板でも入っていそうな硬い腹筋なら恐らく内臓にまでダメージを食らうことはないだろうが、全く痛まないなんてことは絶対にないはずだ。きっとしばらくの間は鳩尾辺りに消えない痣が残されることになるだろう。
刑務所の中には、暴力沙汰に慣れてる野郎がごまんといる。中途半端な手加減をすれば、バクシーたちが演技で馴れ合っているだけだとすぐに見破られちまうことだろう。だから手を抜くわけにはいかない、ってのは俺にだって分かる。
あそこにいるのは、脱獄の際に見かけた顔ばかり――つまりは、バクシーの身内だけってことだ。今のあれも、恐らくはバクシー本人が指示をして行われているパフォーマンスなんだろう。
脱獄の時にバクシーに付き従っていたあいつの部下たちは、ボスを尊敬しつつ畏れてもいる、って雰囲気の野郎ばっかりだったのを思い出す。畏れ敬っている相手に半ば本気の暴力を振るわなくちゃならないあの連中も、内心冷や汗ものに違いない。
連中の事情を弁えたフリで自分に言い聞かせて心を鎮め。もしも自分があの立場にいたなら、どうしていただろうかと考えてみる。
もしも俺がバクシーに暴力を振るう立場になったら、本気であいつを痛めつけるなんてできない――なんて眠たいことは言わねぇ。バクシーなら絶対に受け止めてくれるはずだと信じて、迷わず本気でやるだろう。今、あそこでバクシーをフクロにしてる奴らもきっと。
(バクシーを――自分たちのボスを、信じてるんだ……)
そんな風に考えた途端、胃の中で覚えのない感触が蠢いたような気がした。
俺の知るバクシーは、組織が壊滅状態になっちまってカネも部下も何にも持ってねぇ素寒貧のギャングだった。あいつと俺と親父、それにマックスっていうオママゴトみてぇな人数しかいない状況でも、余計なもんなんかない方が身軽でいいと笑っているような野郎だった。デイバンでも、俺にすら知らせないでこっそりと逃げ場所を用意しておくような、臆病なくらいに他人を信用しない慎重な男だった。
他人を完全には信用しないというバクシーの本質自体は、今この瞬間においてもそのままなんだろう。だけどそれでも、自分の身を委ねてもいいとは思える程度に信用している部下がいて。そいつらからも信頼を寄せられている。
デイバンでは俺をトップとして担ぎ上げて、自分はサポート役に徹してくれていたバクシーの、〝ボス〟としての顔に。以前、俺がマジソンから連れ出される際にも垣間見ていたはずだがすっかりと忘れていた、野郎のその姿に。
俺は、何故か――ひどく動揺していた。
「……げ、げへっ!」
嘔吐きながら身を二つに折ったバクシーが、地面に這いつくばる。その口から粘ついた液体が吐き出されるのを見て、俺は反射的に歯を食い縛っていた。
「またションベン漏らしてんのか、クズが」
風に乗って俺のところまで流れてきた罵り文句が鼓膜を打つ。その声に含まれた暴力を切り上げようとする気配に、バクシーが小便を漏らすってのは何かの合図なんだろうかと俺はぼんやり考えを巡らせた。そうやって思考を何処かへ逸らしていないと、自分の感情を呑み込もうとする何かに耐えられそうに、なかった。
男は、バクシーの顔の前へ吐き捨てた唾の上に、喫っていた煙草の吸殻を投げ捨てる。まだ火の点いているその煙草にバクシーが手を伸ばした。その手が煙草ごと踏みつけられる。
「ひぎ!」
熱さに悲鳴を上げるバクシーをもう一度罵ってから、連中は急に興味を失くしたようなツラになってバクシーに背を向け、立ち去った。周囲にいたカタギさんの囚人連中がホッとしたような表情を浮かべるのが目に入ったが、死にかけの虫みたいに地面の上で苦しみ藻掻いているバクシーに声をかけようとするような慈悲深い野郎は一人もいなかった。
誰からも無視され、まるでそこにいない者として扱われるバクシーは、イモムシみたいに建物の陰へと這っていき、そこでさっき手に入れたシケモクを大切そうに摘まみ出す。
不器用そうに動くその手の中で煙草がボロボロと崩れ落ちてただの紙切れになっちまうのを見て。あの大きな手が見た目からは想像もつかないほどに器用に動くことを知っている、俺は。
(――あの紙切れには、どんなことが書いてあんのかな……)
そんなことを思いながら。やっとの思いで、野郎から視線を引き剥がした。