現在未完。雪原ENDからマジソンに時間遡行したジャンさんの話。

逆行ジャンさんの一人旅 - 5/8

29,002文字 / 約33分
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今日も今日とて、片手にモップ、片手には水の入ったバケツを持ち、表情だけはキリッと生真面目な模範囚を装って。俺は独房棟の廊下を進んでいた。八番房の様子を窺うためではなく、そこを偵察していた時に遭遇したバクシーに会うために。いつどのタイミングでバクシーに遭遇したんだったかを正確に覚えていなかったせいで、既に一度無駄足を踏んでいる。あまり何度も同じ場所に足を運んでいてはゴンザレス一味に不信感を与えちまう可能性があるし、今回もハズレだったらここでバクシーに会うのは諦めた方がいいかもしれない。
そんなことを考えながらのろのろと掃除をしていた俺は、八番房のある通廊の角で一休みするフリをして煙草を取り出し、しゃがみこんだ。火を点けてゆっくりと息を吸い込むと、体内を巡るニコチンが脳にまで到達して頭がくらくらする。脳を揺らされるような酩酊感はこの身体にとっては馴染んだ刺激のはずだが、精神的には随分と久しぶりのそれは、あまり心地のいいものではなかった。

(馬鹿になりそうだって、アイツならそう言いそうだな)

想像すると嫌そうな顰めっ面まで思い浮かんできて、少しだけ笑っちまう。
久々に吸った煙草は、大して旨いもんじゃねぇなってのが素直な感想だった。ムショで手に入るような煙草なんてそもそもが上等なもんじゃないが、無論そんなことが理由なわけじゃない。以前はこの煙草数本のために誰かのお願いを叶えてやったり、一握りの煙草と引き換えに男のケツを掘ってやったこともあったもんだが。バクシーの影響でさっぱりと喫わなくなった今の俺からすると、何をそんなに有難がっていたのかと思っちまう。
バクシー風に言えば百害あって一利なしの毒の塊。あいつと一緒に過ごした時間より、煙草を喫ってた年月の方がよっぽど長いってのに、ほんの数ヶ月間で俺の身体は内側から創り変えられちまったみたいだった。
こんな風に煙草を喫う俺を目にしたら、あいつならきっと嫌そうな顔をすることだろう。俺から酒や煙草を遠ざけるのみならず、冷えた飲み物すら身体を冷やすからよくないと心配し、自分の作った飯を食う俺を嬉しそうな顔で眺めて。そんなあいつの姿にお前は俺の母親かと何度も突っ込みたくなったもんだが、野郎の幸せそうな表情を見ているとどうにも抵抗する気が起きなかった。こんな稼業だってのに、バクシーの奴は本気で俺と長生きしたいって、そう思ってくれていた。

叶えてやれなくって、ごめんな

いつの間にやらすっかり短くなっちまってた煙草を床に擦りつけ、潰さないように丁寧に揉み消し。沈んだ気持ちで二本目の煙草に火を点けた時だった。いきなりぬうっと現れたデカい影が俺の方に倒れてくるみたいに上から覗き込んできて。

「へ、へ。だぁれ? なに、やってん、のぉ?」
!!」

見上げた視界の中にバクシーの顔が逆さまに飛び込んでくる。そうだ、前回も確かこんな風にいきなり背後を取られたんだった。あの時は分からなかったが、恐らくこいつも八番房のトンネルの様子を偵察に来ていたんだろう。そこでたまたま使えそうな奴を見つけて、そいつに絡むフリをしながらゴンザレス一味の動向を窺っていたんだ。そんなことにも気づかず、俺はバクシーが連中を刺激するんじゃないかとハラハラして。子供に飴玉をやるみたいに、野郎に煙草を与えて宥めるのに必死だった。俺がくれてやった新品の煙草を両手で掴んだバクシーは嬉しそうに目を輝かせてはしゃぎながらそいつを喫って。

(本当は煙草なんて大っ嫌いなくせにな

「なーにー、し、てる~の~?」

そう言いながらバクシーは、丸まった背中をぬうっと伸ばしてトンネルのある通廊の方を窺おうとする。その服の裾を引っ張って、俺は奴をその場に座らせた。でかい図体を縮めて俺の隣にストンと座り込んだバクシーは、それでもまだ未練がましそうに八番房の方を覗き込もうとする。

「あっち、なあに?」
「あんまりじろじろ見てたらぶん殴られるだけじゃすまねえぞ。それよりホラ、いいもんがあるぜ」

前回と同じように物でバクシーを釣ろうと試みる。だけど、前回と同じように煙草をくれてやろうという気にはなれなかった。こいつだって目的があってそうしてる以上、何を餌にしようが喜ぶフリして乗ってくるのは分かっちゃいたが。健康志向のこいつに演技とはいえ煙草を喫わせるのは忍びないと、そう、思っちまったからだ。知らずに勧めちまうのは仕方がないが、知っていてそうするのは何か違う気がする。
否、結局のところは何もかもが言い訳に過ぎないのかもしれない。俺は単純に、こいつが本当に喜ぶ物をくれてやりたいと、そう思っただけなんだろう。

ちょこ?」

俺が隠しからこっそり取り出した物を見て、バクシーは驚きに目を丸くした。何となく、これは演技じゃなくて素の反応なんじゃないかと思えて嬉しくなる。しばらく前まだこのマジソン刑務所が今みたいな状態になっちまうよりも少しだけ前のことだが。看守のジョシュアが俺のやったとある善行というほどのもんでもなかったとは思うへのお礼と称して寄越したハーシーズ。見つかると面倒なことになるので本当はさっさと食って処分しちまった方がいいのは分かっていたんだが。甘い物はムショの中では煙草よりも遥かに貴重な嗜好品で、俺はそいつを貧乏たらしくちびちび食い繋いでいた。
まだ半分くらい残っているチョコをひと欠片折り取って、ポカンと開いたバクシーの口の中に、他の奴に見咎められる前に素早く放り込んでやる。大人しく口を閉じてチョコを味わってるらしい野郎の顔を眺めながら、俺は自分の指についたチョコを舐め。

「んあめぇ
「う、ふふ、んまい。あ、ありがと~」

バクシーが機嫌のいい猫みたいに両目を細める。前回煙草をやった時も嬉しそうなフリはしていたが、今は本当に喜んでるんじゃないだろうか。リリーの作る甘いおやつはもちろん、痺れそうに甘ったるいコーヒーにも喜んでいたぐらいで、こいつは結構な甘党のはずだから。

ん~

俺の顔を眺めるバクシーが、首を傾げながら指差してくる。俺の名前を知りたい、っていうパフォーマンスだ。多分、もうとっくに俺がどこの誰なのか名前どころか、CR:5の次期ボス候補として名前が挙がってるってことも知っているだろうに。

「俺は、ジャンだよ」
「じゃぁ、ん?」
「ジャン」
「じゃあ、ん」

イントネーションも違えば声色も違う。それでも、バクシーの顔をした生き物に呼ばれる自分の名前に、不覚にも視界が歪んだのが分かった。それを誤魔化すみたいに俺は慌てて俯いて、手の中のチョコをもうひと欠片ちぎり取り。その間に素早く瞬きをして水分を追っ払ってから顔を上げ、再びバクシーの口にチョコを放り込む。こいつ、バクシーの野郎、もらえることを期待して口開けて待ってやがった。

可愛いな

何だか、親から餌を貰うのを待つ雛を見てるような気持ちになっちまう。自分よりもよっぽど図体のデカい大男相手だってのにな。

「うん、めえ。じゃあん、ちょこ、うめ、うめ、へへ」

ニタニタ笑うその顔は誰がどう見たって不気味でしかないはずで。数ヶ月前の俺も気色悪いと思って見ていた、そのはずなのに。今の俺にとってはついうっかり頭を撫でてやりたくなるぐらい可愛く見えちまって仕方がない。手持ちのチョコが永遠になくならなきゃいいのになぁ、なんてことまでついつい考えちまう。

(重症だ

こいつがずっと幸せそうな顔をしていられたらいいのにな、と思う。バクシーが俺の隣でいつでも幸せそうに笑っている未来を掴むために俺は戻ってきたんだと、そう、思いたい。

「バクシーお前、CR:5の幹部たちには特にナイフ使いのジュリオには絶対近づくなよ」

バクシーのツラを見ていたら思わずそんなことを口走っちまった。自分でも驚いたが、口から出た言葉はもう戻せない。バクシーは言葉の意味が分かりませんって顔で首を傾げて俺を見ているが、突然そんなことを言い出した俺に警戒心を抱いたであろうことが何となく伝わってきた。それが分かる程度には俺たちは一緒にいたってことだし、俺にそれが分かるってことはこいつはやっぱり俺が一緒に過ごしてきたあのバクシーなんだってことで。俺は慌てながらも心の何処かではひどく安堵する。

「お前には言っても分かんねぇかもしれねぇけどあいつらが問題を起こしたら俺も何かと困るんだ。他の三人は上手いことやってくれると思うがジュリオだけはイマイチ読めねぇ」

何はともあれ、警戒しているバクシーの疑いを晴らすのが最優先だろう。今の忠告はお前のためっていうより俺自身のためであり、打算から来ている行為だってことがバクシーに伝わるような言い回しを選んだ。うっかり口を滑らせたのを誤魔化すための言い訳だったが、ジュリオが読めないってのは本当のことでもある。
一緒に行こうと、戻ってこいと、ギャングの俺に必死に言い募っていたあいつが一体何を考えていたのか、俺には理解できなかった。今考えてみても、分からない。俺のためだと嘯きながら、可愛い手下たちをバクシーを殺そうとした男。あいつにやられたバクシーが地面に吐き出した血の色を、今もまだ鮮明に覚えている。
目の前にいるバクシーの口許に、粘っこい血が溢れ出す幻覚が見えるような気がして。俺はこっそりと掌を握り締めた。

「うっかりあいつに近づいたら、GDってだけで痛い目に遭わされるかもしれねぇぞ」
「いたい、の、やーだー」
「だよな。だから、背の高いなんつーか、王子様みたいなイケメンを見かけたら、近寄るな」

ガキに噛んで言い含めるみたいな口調でバクシーに諭しながら、デイバンで幹部連中と顔を合わせた時のことを思い出す。イヴァンとルキーノはバクシーを見て大いに驚いていたが、ジュリオの奴は違った。あいつだけは、バクシーを見ても驚くことなく、それどころか。

あの刑務所でおまえを、殺しておけばよかった

確かに、そう言っていた。あれはつまり、刑務所にいた頃からバクシーの正体に気づいていた、ってことなんじゃないだろうか。そんな奴に今のバクシーがうっかり近づいちまったら、一体どうなることか。悔しいことにデイバンでもバクシーの奴はジュリオに一歩及ばなかったのだ。今の弱っちいフリをしているゴンザレス一味を欺くために抵抗や回避、ましてや反撃なんてできるはずもないバクシーなんて、どんな大怪我を負わされても不思議はないし、最悪本当に殺されちまう可能性だってあるんじゃないのか。そう思ったら、俺はどうしても不安でならなかった。
こちらをじっと見返していたバクシーは、どうやら俺の誤魔化しに一応は納得してくれたようで、銀灰色の両眼に浮かんだ不審の光は大分薄くなっていた。自分が不利益を被るのを避けるための打算からの忠告だという俺の言い訳を信じたのか、それとも行きずりの哀れなジャンキーに情けをかけるお人好しだと思ったのかは分からない。ただ、完全には疑いを捨てきらない辺りもこいつらしい。その用心深さがこいつをここまで生かしてきたんだろう。

「いい子にしてたらまた何か旨いもんやるから。な?」

(だからどうか、あいつには近づかないで無事で、いてくれよ)

祈るような気持ちで、俺は最後のひと欠片をバクシーの口の中へと入れてやった。