集めた食器を積み込んだ台車を押して、食堂へ向かう。通路の三叉路を食堂に向かって曲がった俺の視界に、ぞろぞろと雁首揃えて食堂に向かう冴えない囚人服の群れが飛び込んできた。その光景が意味することに気づいて、俺の心臓は大きく高鳴る。食堂には、あのハゲ――クソッタレのゴンザレスの野郎が、いるはずだった。そして俺の記憶が確かなら。
(あいつも。バクシーも、あの時、ここにいた……はず、だ)
俺の中ではもう数ヶ月前の出来事だし、そもそもムショにいた頃にあいつと関わったことなんてほとんどなかったわけで、奴に関する当時の記憶は朧気だった。それに、全ての物事が前回と同じように再現されるとは限らない。場合によっては、バクシーがマジソンにやってこないという可能性だってある。
冷静ぶってそんな風に考えてみせた俺だったが、あいつに会えないかもしれないと考えた瞬間、心臓が握り潰されたみたいに胸が苦しくなった。もしそうなっちまったら、俺はどうしたらいいんだろう。
(――その時は、一人で脱獄してロックウェルを目指せばいい。それだけのこと、だろ……)
CR:5のスミを潰して親父に頭を下げて、GDに入れてくれと頼み込めばいい。認めてもらうためにまたあのオッサンと殴り合ったっていい。そんなことを自分に言い聞かせるようにして、心を落ち着かせる。その考えが言うほど簡単なことじゃないのは分かっているが、打つ手が一つもないよりは遥かにましだった。またバクシーに会えるなら、きっと俺は何だってできる。
頭の中ではたった一人のことを考えつつ。かつてのように、俺は台車を押しながらGDの囚人どもに混じって食堂の入口をくぐった。この食堂で何が起こっているのかは既に知っているおかげで、以前のように驚いたり戸惑ったりすることはない。
俺たちの動向を鋭い目つきで見張る、棍棒や鉄パイプで武装したGD野郎ども。食堂の許容量いっぱいって感じに詰め込まれた、薄汚れた囚人の群れ。鼻を刺す、肉やコンソメの使われているんだろうスープの香り。だけどそんなもん全部をかき消すほどの吸引力で、そいつは俺の視界に飛び込んできて――意識の全てを攫っていっちまった。
(――バクシー……!!)
厨房の方へと向かってフラフラよろよろと揺れながら歩く、薄気味の悪い後姿。平常時のあいつを見知っている俺からすると、骨格から変わっちまってるようにしか思えないぐらいに丸められた背中。ダブついた囚人服に埋もれるように縮められているその身体は、それでもやっぱりデカいことに変わりはなくて。だけどそのデカさ以上に目を惹くのは奴の動きの異様さだろう。一言も発していないのに頭がイッちまってるのが伝わってくるような挙動で歩を進める野郎から、周囲の人間が嫌そうに距離を取っているのが、離れた場所にいても見て取れる。
(――ちゃんと生きて、動いてる――クソ、泣きそうだ……)
記憶の通りにバクシーがそこに存在していることに俺は心の底から安堵して。それから、胸にこみ上げてきた熱いものを必死に飲み下した。最後に見たあいつは、雪の上で血を流して倒れ込んだままピクリとも動かなくなっていた。それが今はこうして生きた状態でそこにいて、元気そうに――と言うと少々語弊がある気がするが、演技なのは分かっているのでその辺については置いておくとして――動いている。ただそれだけのことが、泣きたいぐらいに嬉しかった。
「ゴンザレス兄貴、こっちですぜ!」
不意に鼓膜を突き破って脳に飛び込んできた名前に、反射的に目をそちらへ――さっき俺が入ってきた食堂の入口の方角へと向けてしまう。二〇人近いヤクザどもに囲まれて得意そうに歩く禿げたゴリラ――ゴンザレスの野郎がそこにいた。そのクソッタレたツラを見た瞬間、シモン爺を殺された時のことが頭に蘇って脳味噌が沸騰しかける。このまま野郎を見ていたら、俺があいつを憎んでいることが視線や表情で誰かに気づかれちまうかもしれない。とっさに視線を逸らした俺は、茹だった脳味噌を鎮めるようにと自分に言い聞かせた。
(――落ち着け。シモン爺はまだ殺されてねぇ。……今回は、殺させねぇ……)
気分を落ち着けたところで改めて、気づかれないように横目で連中を窺い見る。数か月ぶりに目にした、ゴンザレスとその取り巻きの人相をじっくりと頭の中に叩き込み。それからもう一度、バクシーのいた方へと視線を戻した俺は。厨房の方からゆらり、フラフラとやってきた電柱みたいな野郎を見つけた。
「……ひ、うひ……。めし、ぅひ……」
スープが入っているのだろう、薄汚れたボウルを持ってニタニタと笑いながら歩く野郎の姿に、そういえばこんな風だったなぁと感慨を覚える。野郎にすっかり馴染んじまった俺――その、何というか、あいつに言わせれば恋人ってやつ――の立場をもってしてもなお、気色が悪いと思えるのだから相当なもんだ。ゆらゆら、のろのろと歩いていく薄気味の悪い長身が、ゴリラ野郎たちの行く手を遮るように横切ろうとした、その時だった。
「てめえ、どのツラ下げてアニキの前を! アアン!?」
この後にどんなことが起こったんだったか、もはや忘れかけていた俺の鼓膜を耳障りな声が撃ち抜く。その声の持ち主らしいショボくれたハゲに脚を蹴られてバクシーは倒れ、スープを床にぶち撒けた。
「――ッ!!」
思わず息を呑んだ俺の視線の先で、バクシーが引っくり返ったボウルに手を伸ばす。だが、そのボウルに手が届く前に、ショボくれハゲがクッソ汚え靴でそのボウルを蹴飛ばした。それから、スープと一緒に落とされたパンを、追い討ちをかけるように踏みにじったそのクソ野郎は、それを食えとバクシーを煽りたてる。怒りで頭の中が真っ赤になる俺の視界の中で、バクシーは。
「ぐ、うう……くぷ、ぅ……。じゅ、ちゅ……ぅ」
床にぺたんと座り込み、デカい身体を惨めに丸めて、零れたスープに口をつけて啜り、舐めた。
「――――ッッ!!」
声を漏らさないようにギュッと唇を噛み締める。口の中に血の味が広がったが、それでも俺は食い縛る力を緩めなかった。台車の取手を握り締める俺の手は、血の気が引いて白くなっていることだろう。誰かに見咎められて不信感を抱かれる前に何とかした方がいいと、頭のどこかで冷静に忠告してくる俺も確かにいるのに。それ以上に、俺の脳は熱く赤く煮えたぎっていた。
これが、バクシーの奴にとって必要なことなのは分かっていた。〝味方殺しのマッド・バクシー〟を知っている人間にとっては到底信じられないような惨めったらしい姿を見せつけること。ゴンザレス一味のヒエラルキー内で最下層に属するような雑魚にすら満足に抵抗できない自分の無力さをアピールして、ゴンザレスの一派を油断させる、そのための布石。
それは、ある意味ではひどくバクシーらしい姿だとも思えた。必要だと断じたことのためであれば躊躇いなく割り切った行動に出ることのできるバクシーは、目的達成のためにはプライドなんてあっさり捨てちまう。他人の靴の泥を舐めるようなことも平気でやる。野郎の強靭な精神は、どうでもいい他人の悪意や嘲笑ごときで傷ついたり揺るがされたりはしないってことを俺は嫌というほどよく知っていた。
(――それでも……バクシーが納得してたって。俺が、許せねぇんだ……)
ショボくれハゲに便乗したゴンザレスの手下どもが、寄ってたかってバクシーを足蹴にする。それから、仕上げだとでも言わんばかりに、ゴンザレスがバクシーの頭を引っ掴んでコンクリの床に叩きつけた。バクシーが啜っていたスープの中にねじるように頭を押し当てては持ち上げ、何度も何度も、コンクリに硬いものがぶつかる音が辺りに響く。
(――クソ、クソクソクソクソ!!)
痛めつけられるバクシーの顔面から血が流れ出ているのが見えて、思わず視線を逸らしそうになるのを俺はぐっと堪えた。目を逸らしたところで、この現実が消えてなくなるわけじゃない。見なかったからといって、俺の心が楽になるわけでもない。
これから先、脱獄するまでの間にはこんな風にあいつが誰かに痛めつけられる姿を何度も目にすることになるだろう。かつては胸くそ悪いがムショの中ではよくある光景だと横目で見て通り過ぎてきたそれに、俺は何度だって傷つくだろう。それでも、俺には何もできない――するわけにはいかない。そういう自分の立場に歯噛みする。
あいつが覚悟を決めてやっていることに、無関係の俺が水を差すわけにはいかないということが。今の自分があいつにとってただの無関係な他人でしかないということが。どうしようもなく悔しくて、悲しかった。
「――おい、ホールマン共! 作業が終わったらさっさと独房に戻れ、もどらんか!!」
看守の声に追い立てられるようにして、俺は他のホールマンたちと一緒に食堂を後にする。背後ではまだバクシーを嘲罵する男たちの声が響いていて――俺の後ろ髪を引いてやまなかった。