「……。ンホッ、おほん」
独房棟から広場へと向かう途中、聞こえてきたわざとらしい咳払いに足を緩めた俺は、その合図を送ってきた相手の姿を目にして――記憶よりも数日早いその結果に、そっと胸を撫で下ろしていた。早め早めに動いておいた甲斐があったというものだ。
俺の手元には前回よりも数日早く、懐中電灯と三〇フィートの白い編み紐がやってくることになった。この二つが実際に活躍する場面が訪れるかどうかは分からないが、一つだけ分かっていることがある。
(――あのクソハゲゴリラのいる場所や、その近くでの受け渡しは、絶対にしないこと、だ)
シモン爺さんは前回同様に食堂での受け渡しを提案してきたが、俺は首を縦には振らなかった。バクシーたちが事を起こすのはまだもう少し先のはずだが、いつ何時、どのような事情で日程がずれるとも限らない。何より、爺さんには連中に近づいてほしくなかった。死体袋に詰めた時の、生命活動を終えた小さな身体の何とも頼りない感触を。それを引きずって歩いた地面のぐんにゃりとした踏み応えを。俺は今でもまざまざと思い出すことができる。
死体安置所でストレッチャーに載せるために持ち上げた、小さいくせにぐったりと重たかった爺さんの身体。あれは、俺のために失われた生命そのものの重たさだった。その身体に突き刺さっていた割れたコーラのガラス瓶のきらめきと、その無機質な硬さ。そこにこびりついたどす黒い血の汚れ……あんなものを見るのはもう二度と御免だった。
あんな――恐怖と失意と憎悪は、二度と経験したくなかった。
「労役の後、俺は一階の――懲罰房近くのトイレで用を足す」
懲罰房の傍に近寄りたがる奴は少ない。おかげでいつも空いているそこは、ゆっくりと用を足したい連中に愛用されている。そんな場所が囚人間の取引に利用される可能性については刑務所側も当然気づいているだろうが。生憎とクソッタレた今のマジソンには、そういったムショ内の事情を弁えていない看守が山といる。俺も爺さんもここでのオツトメはそれなりに長い。懲罰房の傍を見回っている看守のツラにお互い見覚えがなければ、それがゴーサインになる。そういうことだった。
◇ ◇ ◇
ひと気のないトイレの手洗い場で、手を洗うついでに軽い世間話をする。一分にも満たないような会話の合間に手早くブツのやり取りをして。別れ際、俺は爺さんに耳打ちをした。
「この先ちょっときな臭いことになるはずだから、GDの連中には――特に食堂には、近づかない方が、いい」
俺の警告を聞いた爺さんは物問いたそうにこちらを見上げてくるが、それ以上は何も言わず黙って見つめ返した。俺の表情から何かを読み取って、爺さんも無言で頷きを返す。それを目にした俺は心の底から安堵して――大袈裟なようだがその場に膝をつきそうになった。
バクシーと一緒に脱獄する未来に進みたいのであれば、前回と同じように事を進めるべきだ。この時点での俺が本来は知るはずのない情報を口にすることだって、避けるべきだ。俺だってそれぐらい分かっちゃいる。
だけど、俺のせいで――俺のために命を落としたこの爺さんを、二度も死なせたくなかった。幹部四人を脱獄させずに見殺しにする道を選べなかったのと同じだ。甘ちゃんの俺は、自分とバクシーの未来のためだからといって、親しい人間を見殺しにすることはどうしたってできそうになかった。
(前みたいに、デイバンに誘ってやることはできねぇが……)
遠い過去のあの日、寄る辺ない己が身の頼りなさを語って俯いていた爺さんの、しょぼくれた姿を思い出した俺は。俺の胸は、あの時と同様にやるせなさで満たされはしたが。今の俺にしてやれる――言ってやれることなんて何ひとつありはしない。
あの頃は、脱獄に成功した後の自分はデイバンでシマのひとつも持って、マフィアの幹部様でございってなデカいツラして幅を利かせていると信じて疑っていなかった。家族も持たない爺さん一人が生計を立てられる程度の仕事の面倒くらい見てやれると、暢気に考えていた。
だけど、実際の俺はここを出た後、仕事を紹介してやるどころか自分たちが糊口を凌ぐだけで精一杯の貧乏ギャングになっちまう――予定だ。どう考えたって碌な未来じゃないが、それでも、俺にとっては何物にも代えがたい未来だ。
(親父がいて、マックスがいて、そして――あいつが、いる。それだけで、いい……決して多くを望んだりはしないから。だから、大事な奴と共に歩く未来を俺にくれ)
もう、祈る先なんて神も悪魔も持っていないくせに、俺は――願うようにそんなことを考えて。そうして、トイレを後にした。