リリーの手伝いを終えてカサブランカの廊下を歩いていると、調子っ外れの鼻唄がどこからか聴こえてくる。俺の部屋に近づくにつれて大きくなっていくそれは、あのイカレ野郎が機嫌のいい時によく口ずさんでいるものだった。
「よぅ、おけーり、ジャン」
「おう」
鍵のかかっていないドアを無造作に開けると同時に部屋の中から声をかけられる。窓際に置かれた机の上で銃のメンテナンスをしていたらしいバクシーは首だけでこちらを振り返り、俺と視線を合わせると嬉しそうに目を細めてデカい口でニィ、と笑ってからまた自分の手元へと視線を戻した。
そこに並んでいるのは手入れのためにバラされた、ショットガンのパーツ。その脇にはピカピカに磨き上げられた俺のルガーがある。親父から譲り受けた俺の相棒は、いつの間にやらバクシーが当たり前みたいに手入れしてくれるようになっていた。
「いつもサンキュな」
「ハハァ、いいってことよ」
機嫌のいい猫が喉を鳴らすような調子の声で応じながら、バクシーはバラされた銃身に手を伸ばす。不具合を確認しているのだろう、棍棒みたいな鉄の塊の表面を長い指が探るようにゆっくりと這っていく。見た目からは想像もつかないほど器用に動く野郎の手に、自然と視線が吸い寄せられた。
もうほとんど見た目には分からないが、その拳にはまだごくわずかに火傷の痕が残されている。デイバンで瀕死の重傷を負った俺を治療する際に、アルコールをぶっかけて火をつけて消毒したせいで負ったものだ。当時の俺は意識が朦朧としてたんでその時の様子は記憶にないが、ひよこたちによるとバクシーは周囲が制止する暇を与える隙などないほどに、一瞬の躊躇いも見せることなくそれをやってのけたらしい。
あの時。ずっと寝ていた俺がようやく目を覚ました、その時。俺の無事に喜びと安堵の涙を流したバクシーのツラを。その両手を覆う火傷に気づいた俺を誤魔化した、野郎の適当な――優しい嘘を。思い出して、胸がギュゥッと締めつけられたような気分になっちまう。
「――ッ!!」
息を呑む、バクシーの気配。いつの間にやら俺は、こちらに向けられた奴の広い背中に無意識に自分の身体をすり寄せるみたいにして、野郎の手元を覗き込んでいた。奴の手元に向けていた視線を少しずらすと、息がかかるほど近くにあるバクシーの耳が、その縁が薄っすらと赤く色づいているのが見える。
「あー……ジャン、ちっと、近ぇカモ……」
手元が狂っちまいそうだ、と。ぼそぼそと不明瞭な声を発したバクシーが居心地悪そうにケツを揺すって座り直す。その結果、野郎の座る椅子には俺の覗き込んでいる側の座面にわずかな空間が発生していた。図体のデカい野郎にとってはド真ん中に陣取ってたって面積が足りないぐらいであろうに、少しでも俺から離れたいとでも言っているかのようなその隙間に、不意に苛立ちが湧き起こる。
バクシーにやられた俺の怪我が、治って、奪われたリングが野郎の腹から出てきたら、その時に改めて考える。それまで俺とバクシーの関係については保留する、と。そう言ったのは確かに俺だった。
(ああ、言ったよ。言ったさ。間違いなく、俺が、そう言ったんだ)
「いや、言ったけどな!?」
「エッ!? 何だよいきなり、何かあったんけ?」
心の叫びをうっかり外に出しちまった俺の声に、バクシーが弾かれたみたいに反応する。
「……何でもねぇよ」
「えぇー? けどよぅ」
「俺が何でもねぇっつったら、何でもねぇんだよ!」
「……おう……」
頑なに言い張る俺に、釈然としない様子を見せつつもバクシーは肯いて、視線を再び手元に落とす。だが、さっきまでとは違って全く作業に集中できていないのが丸分かりだった。
(保留する、とは言ったけど……まさかこんなに時間がかかるなんて思ってなかったぜ……)
俺たちがデイバンからここロックウェルへと命からがら戻ってきて、その後を追うようにマックスがひよこたちを連れて帰ってきたのは、一体何ヶ月前のことだったか。吹き荒れる砂混じりの突風は鳴りを潜めたが、骨まで響くような寒さはまだまだ続く今日この頃。湿気を含んだ西風のせいで、この寒さは来月――四月辺りまで続くと、そう言ったのは他ならぬバクシーだ。
(そう、つまりは三月だぞ、三月!!)
俺が野郎の告白を保留にしてから、実に半年近くの時が流れていることになる。その間、バクシーはずっと俺の隣にいた。デイバンで暴れる俺を見守り、支え、時に手を差し伸べてくれたこの野郎のことを、俺はいつの間にかかけがえのない相手だと思うようになっていて。
俺がジュリオと対峙していた時、何処からともなく現れたバクシーの姿を目にして、どれだけ心強く感じたことか。ジュリオにやられて地面に倒れ伏したこいつを見た時――その口から吐き出された血の塊を目にした時、この男を失うかもしれないという可能性を突きつけられた俺が、どれほど絶望的な気分にさせられたことか。
吹き荒れる風雪の中、あの地獄から生還できたのだって、互いを励まし合うことのできる相手の存在があったからなのは分かっていた。きっと俺一人だったら、あの街から出ることすらもできずに野垂れ死んでいただろう。
(俺はもう、お前がいねぇと……)
それなのに、母親の形見のリングは未だにこの野郎の腹の中にあって、一向に出てくる気配がない。そうして、この朴念仁は俺の言いつけを愚直に守って、俺に指一本触れてこようとはしないのだ。
(このチキン野郎め……)
あの時みたいに無理矢理レイプしろとは言わないが、もう少しぐらい強引な態度に出たっていいだろうに。こうしてちょっと距離を詰めただけで顔を赤らめて狼狽えるとか童貞かよ。
そんなようなことを考えていたらどんどん苛立ちが募ってきて。
「――――!!」
バクシーの座る椅子の座面にほんの少しだけ空いていたスペースへと、俺は強引にケツをねじ込む――つもりだったが、直前で考えを変えた。反射的に立ち上がろうとした野郎の首に腕を回して、その動きを制止する。もちろん、バクシーがその気になれば俺の腕なんて簡単に振り払えるだろうが、俺の考えた通りバクシーは大人しくされるがままになった。
野郎のぶっとい太腿を向かい合わせに跨ぐ形で、俺はその上にケツを下ろす。腕は奴の首に回したままだったせいで胸元に縋りつくような形になった俺に――その距離の近さに、野郎が慌てふためいているのが伝わってきた。
「ジャ、ジャン!?」
「うるっせぇ」
「だって――モガッ」
耳のすぐ傍で発された声は面白いぐらいに裏返っている。手加減無しのボリュームに眉をひそめた俺は掌で野郎の口を塞ぎ。それから、野郎を挑発するようにケツを――腰を揺すってみせた。そうすると、尻の下に敷かれたブツの硬さが俺のケツにありありと伝わってくる。
「ナァ、お前のコレ、いつからこんなになってたん?」
「――ッ、す、まねぇ……その、俺……」
掌越しにもごもごと聞こえてくるバクシーの声に俺はフン、と小さく鼻を鳴らし。それから、奴の太腿の付け根に自分のそれを押し付ける。互いの熱が触れ合った瞬間、バクシーの動きが固まった。
見開かれた銀色の瞳が、信じられない、という色を浮かべて俺を見下ろしてくる。それにニヤリ、笑みを返して。
「俺は、テメェが銃身の内側に指突っ込んでんのを見た時から、ずっとこうだよ」
囁くようにそう告げると、まるで目眩でも覚えたみたいにバクシーは目を閉じて。次に目を開けた時にはもう、獰猛な獣みたいなギラギラとした目つきで俺を睨み据えていた。
(ああ、そうだ。そうやって、俺を欲しがれよ――)
俺の頬に触れようとして、そこでようやく自分の手がオイルまみれだったことに気づいたバクシーが一瞬動きを停める。だけどもうそれ以上待ちきれなかった俺は、首に回した腕で野郎の頭を抱き寄せて。
「ジャン、ジャン――好き。好きだ――」
「ン、ふ、知ってる、つーの……」
触れた唇の感触に。もどかしそうにねじ込まれる舌に。俺の全てを食いつくしたいとでも言うような熱い吐息に。俺はひどく満たされる気がして。唇を触れ合わせたまま、至近距離にある銀の双眸を――濡れたように光るその輝きを覗き込みながら。
「俺も、好き、だよ」
一番大事なひと言を、口にした。