ジャンは歩きながらネクタイを緩め、それからふと思いついて内ポケットから煙草のケースを取り出す。柔らかな紙箱の蓋を指で押し上げると、自分を選べと言わんばかりに頭を飛び出させた煙草が一本、目に映った。それを唇で直に咥えて引き抜き、反対の手で銀色に光るオイルライターを取り出す。
跳ね上げられた蓋の、カチン、という乾いた金属音が、ひと気のないダウンタウンの通りに小さく響いた。ジャンが慣れた仕種でホイールを親指で弾くと、黄色い炎がゆらり、揺らめいて、甘い油の焦げるような匂いが漂う。その火に煙草の穂先を近づけ、ジャンはゆっくりと息を吸い込んだ。重たい煙が、ずしり、肺の奥深くに入り込み、頭の芯が痺れるような感覚になる。ジャンは目を細め、肺の中を巡る煙草の煙をゆっくりと味わった。
口笛を吹くように唇を窄め、肺に溜まった煙を少しずつ吐き出しながら。灰色の景色にゆっくりと溶けていく細く白い煙を、ジャンの目が無意識に追う。――と、その目が空から落ちてくる何かの姿を捉えた。
「――チッ……」
視界にちらつき始めた雪を見止め、別れ際の護衛の言葉を今さらのように思い出したジャンは小さく舌を打つ。
「煙草が湿気っちまうな……」
煙草を覆うように口許に手をかざしながら、どこかに休めそうな軒先はないかと視線を巡らせる。だが、生憎と目に見える範囲にそれらしい建物は見当たらなかった。それならば、とジャンは手近な横道に入ってみることする。
角を曲がった直後、知らずうちに急ぎ足になっていたジャンの歩みが唐突に停まった。風に煽られた雪が舞い踊る視界の中に不意に現れた、それ。太陽が雲に隠れた薄暗いダウンタウンのストリート、立ち並ぶ家々の前にひっそりと佇む人影。毛皮の襟がついた革のコートを身に着けた電柱のような長躯と、銀色の頭髪には嫌というほどに見覚えがあった。
「――――!」
驚きに上げかけた声をすんでのところで呑み込んで、ジャンは辺りに素早く視線を走らせる。
(俺が今日、あそこに行くことを知って待ち伏せてやがったのか……?)
わずかに腰を落として身構えながらコートの内側に手を回すが、期待した手応えは返ってこなかった。
(カッツォ、そうだ、マンマに見つかるとうるせぇし護衛もいるからと思って、ルガーは置いてきたんだった……!)
己の迂闊さに内心で盛大な舌打ちをしたジャンは、だが、すぐに違和感に眉をひそめた。バクシーの姿を認識した時には、てっきりGDの兵隊たちに取り囲まれるものだとばかり思っていたのだが。通りにはバクシー以外の人影は存在せず、先ほどまでと変わらぬ静けさを保っている。そして、肝心のバクシーはと言えば、ジャンの方を見てすらいなかった。ただ一点を見つめたままぼんやりと立ち尽くしている。まるで、ジャンの存在になど気づいていない、とでも言うかのような姿に、ジャンの胸には違和感が湧き起こった。
(あのイカレ野郎がこの距離で他人の気配に気づかねぇなんて、ありえるか? ――否、ありえねぇだろう……)
だとすると、これは何かの罠だろうか、と。警戒しながらも、ジャンはバクシーから視線を離すことができなかった。己が身の安全を第一に考えるのであれば、さっさと逃げてしまった方がいい。だが、自分が彼の存在を放置したことによって、無辜の市民が害されるようなことがあっては寝覚めが悪い。見つけてしまったからには、このまま見過ごすわけにはいかなかった。
口に銜えていた煙草を左手に持ち替え、うっすら積もる雪を踏みしめながら、ジャンはゆっくりとバクシーに近づいていく。相変わらずこちらを見ようともしない男の横顔に浮かぶ表情が次第にはっきりとしていくにつれて、胸の中の違和感が膨れ上がっていった。常に挑発的な光を浮かべている爬虫類じみた目は、虚ろに見開かれたまま。あまりにも覇気のないその姿は、魂を何処かに置き忘れてきた抜け殻のようだった。
(こいつ、何を見てやがるんだ?)
この危険な男から、一瞬たりとも目を離すわけにはいかない。そう思っていたはずのジャンだったが、好奇心には勝てずに彼の視線の先を追ってしまう。
(――クリスマスツリー……?)
それは、一軒の家の玄関脇に飾られた小さなクリスマスツリーだった。長身のバクシーからすると見下ろすほどの背丈しかない、小さな木だ。ライトアップのための電飾も取り付けられていない。麻紐で括られた松ぼっくりやシナモンスティックが風に揺れ、根元には古びた膝掛けのようなものが巻かれている。
拙い手作り感の漂うその姿からは、裕福な家でないことが窺い知れた。だが、少しでも子供たちにクリスマスの雰囲気を味わわせようと、楽しませてやりたいと、そんな願いが伝わってくるような暖かみがそこには確かに存在していた。
そんなツリーの天辺に、これだけはと気合を入れたのであろう、金色にピカピカと光る星が誇らしげに煌めいている。無論、本物の金であるはずはないが、たとえ鍍金であったとしても子供たちの心を弾ませるには充分すぎるほどの輝きだった。
その星を目にした瞬間、バクシーが見つめているのはこれだ、という思いがジャンの胸に去来する。何故か、と問われても理由なんてあるはずもない。ただ、あの天辺で光る星が欲しくて泣いてねだったり、樹によじ登って落ちたりした、己の子供時代を思い出して。目の前の電柱男――母親の胎より這い出た瞬間から血と殺戮の日々に明け暮れていたのではないかと思わせるようなこの男にも、そんな時代があったのではないか、と。
あらぬ考えに囚われたジャンを咎めるように、左手の指先に灼けつくような痛みが走った。
「――――!」
持っていた煙草がいつの間にか根元近くまで灰になっていたことに気づくよりも先に、吸殻を地面に落としてしまう。水分を含んだ雪の上で、ジ、という微かな音を立てて煙草の火が消えていく。その様を見て、ジャンはざわつく胸を宥めるように静かに息を吐き出した。
(――この野郎が指銜えてお星様を眺めるとか、そんなタマかよ。やってきたサンタにショットガン向けて「持ってるプレゼント全部置いてけ」って脅す方がよっぽどしっくり来るっつーの)
軽く頭を左右に振って馬鹿な考えを払い落としたジャンは、大きく息を吸うと腹から声を出す。
「おいバクシー、テメェ、ここで何してやがる」
ひと気のない路地に響いた声に弾かれるように小さく肩を跳ねさせたバクシーは、徐にジャンの方へと向き直った。わずか二メートルほどの距離にいるジャンの姿を捉えた男の目が微かな驚きを宿して見開かれる。だが、それだけだった。常であればジャンの姿を見つけるなり嗜虐的な悦びにギラギラと目を輝かせ、こちらを挑発するような汚らしい煽り文句を浴びせてくるような男が、ひと言も発することなく無言で立ち尽くしている。
「……………………」
無言のまま、バクシーはひどくゆっくりと瞬きをした。元より色の白い男だと思っていたが、その顔はちらつく雪の許ではいっそう血の気を失って、青みを帯びているようにすら感じられる。そのことに、不安混じりの胸騒ぎと――そんな自分への訝しさを同時に覚えたジャンは、足を一歩踏み出してもう一度声を張り上げた。
「おい、聞こえてねぇのか!」
距離を詰めるジャンの姿にバクシーはわずかに眉を顰め、だが、何も言葉を発することなく踵を返して立ち去ろうとする。自分を拒絶するような大きな背中に苛立ちを煽られたジャンは、反射的に手を伸ばしていた。
「待ちやがれ、テメェ――!?」
咄嗟に掴んだバクシーの手は、ぞっとするほどに冷え切っていた。剥き出しの掌から伝わってくる、痛いぐらいの冷たさにジャンは思わず息を呑んでいた。
「な、んだよこれ……」
ちょっと外を出歩いた程度ではこんな風にはならない。屋外で何もせずに長時間突っ立っていたというのでもなければ、説明のつかないような冷え具合だった。手を引かれて振り返ったバクシーは、ジャンの手を振り払うでもなく、ただぼんやりとそこに立っている。あまりにもらしくない姿は、ジャンの胸をよりいっそうざわつかせた。
「どうしたんだよテメェらしくもねぇ……どっか怪我でもしてやがんのかよ」
「………………放せよ」
問い詰めるように言うと、ようやくぽつりとひと言返される。いつもとは違って何の覇気もない、毒のひと欠片すら混じっていない、掠れて小さな――弱々しささえ感じさせる声だ。
(何だよこいつ、本当におかしいじゃねぇか)
バクシーを掴んでいるのとは反対の手をポケットに突っ込んで手袋を探り当てる。だが、この大男に自分のサイズが合うわけはないとすぐに気づいて、ジャンは頭を悩ませ。
――結論は、すぐに出た。
「おいテメェ、ここで凍死体になりたくなきゃ大人しくついてきやがれ」
「――――何で俺が、犬ッコロなんぞに――」
握った手をジャンがグイ、と引っ張るとバクシーは眉を顰めて反射的に己の腕を引き戻すような動きを見せ――だが、その腕はわずかにビクリと動いただけで動きを止めてしまう。力の抜け落ちたような腕の先で微かに震えるバクシーの指先を見て、ジャンはますます確信を強めた。本来であればジャンの腕など簡単に振り解ける――そもそも、触らせることすら許さないであろう男がこの有様だ。言葉は棘こそ帯びているが声は力なく掠れているし、ジャンを睨みつける双眸も視点がどこか定まっていない。恐らくは著しく体温が低下しているせいで判断力も身体反応も低下しているのだ、と。
チンピラ時代、ダウンタウンの裏路地や劣悪な環境の刑務所の中で、同じような状態に陥っている人間を何人も見てきた。こういう状態の人間は、自分がおかしくなっているという判断すらできなくなってしまうのだ。おかしいという自覚がないから正しい処置もできず、結果として、命を落としてしまう者も少なくない。そうして物言わぬ骸になった人間を何人も見てきた身としては、放っておけない、と思う気持ちと。
(こんな奴、このままここで野垂れ死にしてくれた方がありがてぇ、はずなんだけど……)
敵対組織の殺し屋なんてものは、生かしておいても何の得もない。そう思うのに、握った掌から伝わってくるバクシーの体温の冷たさを見過ごすことは、どうしたってできそうにはなかった。自分の甘さに内心で舌打ちをして、ジャンは諦めのため息を吐き出す。
(――放っておけねぇ、って思っちまったもんはしょうがねぇよなぁ……)
「凍死は大袈裟かもしれねぇけどさぁ、こんな状態でこれ以上外にいたら身体壊しちまうぜ。――自分でも分かってんだろ?」
「――チッ…………」
同意の言葉はなかったが、ため息混じりの舌打ちでバクシーが抵抗を諦めたことを悟ったジャンは、彼の手を引いて歩き始めた。
電柱のような大男が自分よりも図体の小さな男に手を引かれてトボトボと歩いている様はどこか異様で滑稽ですらある。そのはずなのに、ジャンはまるで母親を見失った迷子を――泣きべそをかいて母を探す子供の手を引いて歩いているような気分になっていた。
「……………………」
会話はない。何処へ連れて行くつもりなのか、という問いすらなされかった。いつも絶え間なく暴言を吐き散らしているような男が、今はひと言も発することなく無言で足を動かしている。微かな呼吸音と、積もり始めた雪を二人分の靴が踏みしめる足音、それだけがひと気のないダウンタウンの通りに響いている。ひどく、静かだった。
「…………!」
靴音のひとつが不意に乱れて、ジャンはバクシーの手を握る自分の掌にギュッと力を込める。本当は肩を貸して支えてやった方がいいのだろうが、それはさすがに抵抗されそうな気がしてやめておいた。
(そもそも、こいつがマジで脱力しちまったら俺じゃ支えきれねぇし……一緒に潰れんのが関の山だぜ)
決して小さくはないし非力でもないはずのジャンだが、バクシーと並ぶと己がまるで無力な子供のように感じてしまう。それが気に入らず、無意識に唇を尖らせていたジャンを、バクシーが頭上から見下ろして。血の気の失せた唇が微かに動いて何事かを言いかけ――だが、結局ギャングは何を言うでもなく、ただ、白く細い吐息だけを唇の間から吐き出す。ジャンは、何も気づかなかった。