「――ここだ」
赤茶けた煉瓦造りの建物の前でジャンは足を止めた。反応が遅れて止まり損ねたバクシーの身体が背後から軽くぶつかってきて、二人揃ってよろける羽目になる。そんなバクシーの様子に、ジャンは改めてこの男が弱っていることを思い知らされた。
築三〇年ほどの古びた建物には表札はなく、入口の電球も半分ほどが切れており、残された半分もチカチカと頼りなく点滅していた。二人分の体重を受けてギシギシと軋む階段を上がった二階の角部屋の前でジャンは鍵を取り出し、ガチャガチャと安っぽい音を立ててドアを開ける。
「オラ、入れ」
開けたドアの内側に入るようにバクシーを促すと、ジャンを見下ろしたギャングの男は唇をうっすらと笑みの形に歪めた。
「――俺はここで消されんのか?」
「ハァ? だったらこんなとこ連れてきやしねぇよ。自分のヤサを血で汚すなんてごめんだぜ、俺は」
血の巡りが悪くなっているせいだろう、数回瞬きをしてみせてから、ようやく言われた言葉を理解したらしいバクシーは、今度はもっとはっきりと――いやらしく、笑ってみせる。
「テメェのヤサ、ねぇ。じゃあアレか、レイプでもされちまうんけ」
「誰がするかよ! いいからさっさと入れっつーの。ドアが閉められねぇだろうが」
バクシーの言い種に呆れたような声を上げながら、ジャンは繋いでいた手を引っ張って、大きな身体を無理矢理部屋に押し込んだ。
「ったく、ちっとは口が回るようになってきたかと思ったら碌でもねぇことばっか言いやがって……」
ぼやきながらも、ジャンの口許はわずかに緩んでいる。足を動かしたのが良かったのか、先ほどの亡霊みたいな状態から少しだけ脱け出したように見えるバクシーの態度。それを見て安堵しているのだと、本人はまだ自覚していない。
閉めた扉の内側から据え付けの鍵を締め、それから、後付けで設置した鉄製のバーを引く。こうしておけば、仮に合鍵を持っている人間が訪れても扉を開けることはできない――自分がバクシーを連れ込んでいるところを見つかって咎められることはない――とジャンは息をついた。
振り返ると、すぐ傍にバクシーが立っていて一瞬ギョッとさせられたが、罠の存在を警戒でもしているのだろうと納得してジャンは苦笑する。
「取って食ったりしねぇから中に入れよ」
言いながら、バクシーの図体を避けるようにして先に部屋へと足を踏み入れる。入ってすぐが小さなキッチンで、その奥に寝室と兼用にしているリビングがあるだけの、狭い部屋だ。使い込まれた布張りのソファと少し大きめのサイドテーブル。稀にやってくる来客用のアームチェアが壁際に二脚。部屋の角にはシングルベッドが一つ置いてある。
キッチンを抜けて部屋の中央に向かったジャンは、天井灯から垂れた紐を引っ張って部屋の電気を点けた。降りしきる雪のせいで薄暗かった部屋の中を黄色味を帯びた白熱灯の光が柔らかく照らす。それから壁際に移動したジャンは、ソファ脇の壁に備え付けられている古い暖房ラジエーターのスイッチを入れた。数秒遅れでパイプの鳴るガタンという音が響いた瞬間、バクシーがピクリと反応したのが視界の端に映ってジャンは密かに小さく笑う。
(まるで人慣れしてねぇ猫だな)
ラジエーターと向き合う形に置いてあるソファは、冬場のジャンの定位置だ。ベッドがあるにも関わらず、うっかりそこで寝てしまうこともよくある。ソファの端に積んである毛布は、前回このハイドアウトを使用した際の名残だった。その毛布を取り上げながら、ジャンはバクシーに声をかけた。
「こっち来いよ。ラジエーターがボロいからあったまるのにちっと時間かかるけどよ、ちゃんと動くから心配すんな」
バクシーはキッチンの壁に寄り掛かるようにして突っ立ったまま、ジャンとソファを見比べるように何度か視線を動かす。ブーツの爪先はずっと玄関先に向けられたままで、いつでも逃げ出せるようにと身構えているかのようだ。こちらの言うことを信用していいのか迷うような仕種に、ジャンは焦れる気持ちを抑え込んでじっと待った。ここまでは強引に連れてくることができたが、身体を動かして少しだけ頭が働くようになってきたバクシーにはこれ以上の無理強いは逆効果だと踏んだのだ。
(猫は、自分から近寄ってくるのを待たなきゃ、なんだよな。こっちから無理に手を出せば逃げちまう)
銀色の瞳が玄関へと向けられ、ドアに取り付けられている鍵を確認するように細められる。古いサムターン式の鍵は摘みが小さい。スライド式の鉄棒バーも、動かすにはそれなりの力とコツが必要だった。つい先ほどまで握っていたバクシーの手の冷たさを――満足に動かすどころか、指を曲げることすら難しそうに思える強張った様を、ジャンは思い出し。
(今のこいつじゃ、一瞬で開けて逃げるってわけにはいかねぇだろうなぁ)
細められた銀色の双眸には何の感情も浮かんではいない。だが、バクシーも自分と同様の結論に到達したであろうことをジャンは疑わなかった。バクシーの視線は滑るように部屋の奥――そこにある小さな窓へと移動する。裏通りに面した小さな窓は、バクシーの図体で体当たりされればひとたまりもないだろう。二階というこの部屋の立地を考えれば、そのまま飛び降りても怪我ひとつなく地面に降り立てる――バクシーの調子が万全であるならば、の話だが。
沈黙が支配する部屋の中で、記憶の底を叩くような、コト、という振動が響いた。乾いた鉄粉を宙に撒いたような匂いが空気中に広まっていく。湿った蒸気が管の中を移動する低い唸りと、暖められた金属が伸びるピシ、パチ、という断続的な音が鼓膜を打った。部屋全体はまだ冷えたままだが、ラジエーターの周囲には温い空気の膜が生まれている。空気の流れに乗って、焼けた埃の匂いが――温かさの気配が、バクシーの鼻先を掠めていった。
「――――チッ……」
諦めを窺わせるような、小さな舌打ちをひとつ漏らし。肩で壁を押すようにしながら身体を離したバクシーは、ゆっくりとした足取りでソファへ――ジャンの許へと向かってくる。スピードが遅いのは脚が満足に動かないから、というだけではなく、まだ警戒を解いていないからだ。理解しているジャンは、毛布を抱えたまま身動きひとつせず、ただ男が近寄ってくるのを無言で待った。手を伸ばせば指先がバクシーの身体に触れることができる、その距離になってようやく、ジャンは口を開く。
「そのコートとか、濡れたもんは脱いで寄越せよ。干してやるから」
ジャンの言葉にバクシーの足が停まった。毛を逆立てた猫の如く一気に膨れ上がらせた警戒感を露わに、ジャンを睨みつける。
「――これを脱げ、ってのか」
「当たり前だろ? それ着たまんまじゃ体温が下がる一方じゃねぇか」
無言のまま、バクシーは自分のコートへと視線を落とした。武器や弾薬、非常用の食糧などがふんだんに仕込まれたそれは、バクシーにとっての生命線だ。他人の前で脱ぐのも、手放すのも、ひどく抵抗がある。特に今のように、体調が万全でない時にはなおさらだった。迷うように揺れる銀色の双眸を見て、ジャンはため息混じりに諭すような声を上げる。
「そいつが戦車並みの武器庫みてぇなモンだ、ってのは知ってるよ。干すだけだ。必要以上に触ったり探ったりはしねぇ。俺の誇りにかけて誓ってやるよ」
俯いていたバクシーが顔を上げ、ジャンの方へと向き直る。鋭い視線を真正面から受け止めたジャンは、バクシーに向けてニヤリ、と笑ってみせた。
「それとも、俺の前で丸腰になるのが――不安、か? そりゃそうだよなぁ、いつものテメェならともかく、今のテメェじゃ俺にだって簡単に殺せそうだもんなぁ?」
「ハッ、見え透いた挑発だな。そんな安モン、俺が買うとでも思ってんのかよ」
「本当のことだろ? GDのショットガン・バクシーはCR:5のカポが怖くてコートの一つも脱げません~ってな」
おどけた口調で笑うジャンを睨み据えたまま、バクシーは鼻から大きく息を吐いた。本来のバクシーは他人からどう思われようと気にしない、見下されて唾を吐かれたところで、それで相手が油断するならむしろ好都合だとしか考えない男だ。必要なら嫌いな相手の靴だって舐めるし、泥水だろうが躊躇なく飲める。今までもこれからも、それは変わらないはずだったが、ジャンを相手にするとどうにも勝手が違う。この男を前にして、〝逃げた〟とは思われたくない自分がいた。
「ファック……安い挑発しやがってよぅ……」
ゆっくりと、重たい腕がコートの腰元に伸ばされる。未だ強張ったままの指先は思うように力が入らず、金具をひとつ外すのにも苦労する有様だった。掴んだと思ったはずの金具は震える指先から逃げ、逃がさないよう力を込めれば冷え切った指に痛みが走る。そんな様子を見かねたジャンは、身を乗り出すようにして言葉を挟んだ。
「俺が脱がしてやろっか?」
「うるせぇ、黙って俺様のストリップ鑑賞でもしてろや」
「ストリップ、ってお前なぁ……脱ぐのは濡れてるモンだけでかまわねぇんだよ! パンツは履いとけ! あ、いや、パンツまで濡れてんだったら脱いでかまわねぇけど……」
苛立ち混じりに噛み付いてきたバクシーの言葉に、手にしていた毛布をソファに叩きつけながらジャンは咄嗟に言い返し――だが、言葉は途中で勢いを失ってしまう。自分の言葉のせいで、本当は濡れている下着をバクシーが身に着けたままになっては困る、とほんの一瞬だけ考えてしまったせいだった。
(こいつがそんな遠慮とかするタマじゃねぇのは分かってっけど! さぁ!!)
そもそも、自分は何故こんなにも必死になってこの男の面倒を看ようとしているのか。振出しに戻りかけた思考から必死に気を逸らそうとするジャンの目の前で、バクシーはようやくコートの金具を外すことに成功していた。
「……っしゃ……」
思わず、といったように漏れた小さな呟きを耳にしたジャンは、それ以上の茶々を入れることを止め、黙ってバクシーの動向を見守る。
全ての金具を外すことに成功したバクシーは、乱暴な仕種で肩を揺らし、重たい装甲をずるりと身体から引き剥がした。右の袖を抜き、左の袖に引っ掛けたままのそれを腕ごとジャンに向けて突き出す。
「ほれ、乾かしてくれんだろ」
「オウ、何だよやけに素直――ッ、お、重ッ!?」
反射的に受け取ってしまったジャンは想像以上の重たさに驚き、うっかり取り落としそうになったそのコートを慌てて抱え直した。じっとりとした湿り気を帯びた革のコートは、まるで土嚢でも手渡されたかのようなずっしりとした重量感があった。
「おま、これ、何キロあんだよ……」
「量ったことなんてねぇから知らねぇよ」
「これ、紐に引っ掛けたら紐の方が切れちまわねぇかなぁ……」
ジャンはラジエーターの上方に張られている物干し紐を見上げて思案する。そもそも、この重たさでは持ち上げて干すのもひと苦労だ。少しの逡巡のあと、ジャンは二脚のアームチェアをラジエーターの近くまで持ってきて、広げたコートをその二つの椅子を渡すように引っ掛けた。
「これでいいだろ。あとは――」
振り返ったジャンは、裸の上半身を晒したバクシーが、ソファの背もたれに片手をかけて革パンツを脱ぎ落としているのを目にして息を呑み。だが、それが自分の指示した結果であることを思い出して驚きの声をかろうじて喉の奥に押し込めた。
「そこの、それ、ソファの上にある毛布被って座ってろ」
言いながらバクシーの脱いだシャツと革パンツ――こちらも、コートほどではないが見た目からは想像できないほどに重たい――を受け取る。その間も、剥き出しのバクシーの上半身にうっかり視線が行ってしまうのを止められなかった。くっきりと浮き出た筋肉の溝と、腕から胸にかけて描かれた、まるで踊っているようにも見える三体の骸骨の刺青。バクシーの暴力性と加虐性を象徴するような、それ。吸い寄せられるように向かってしまう視線を無理矢理引き剥がし、ジャンは広げた衣類を紐に引っ掛けて干した。
(そういや、今日はあの大砲、持ってねぇんだな……)
もはや彼のトレードマークと化している水平二連のショットガン。その不在が何を意味するのかはジャンには分からないが、少なくとも今日のバクシーは誰かを襲撃する目的でこの辺りにいたわけではないのだろう、と、そう考えて小さく息をつく。
干した衣服の表面についていた雪の結晶が溶け落ちて、ラジエーターに触れた瞬間蒸発する。ジュッという小さな音を背に、ジャンはソファを振り返った。大人しくソファに座っているバクシーの姿は、全身を毛布で覆われているためか、いつもよりも小さく見えた。
(あと、身体をあっためるのに必要なものっつったら……まずは食いモン、だよなぁ)
キッチンに足を運んで棚を開けてみるが、見つかったのは酒ばかりだった。棚の中央にぽっかりと空いたスペースを目にしたジャンは、そこでようやく、前回ここを訪れた時に最後の缶詰を使ってしまったことを思い出す。
(料理に使える食材を適当に補充しといてくれ、って言おうと思って忘れてたぜ……)
正直なところ、ジャンの中では食糧の補充の優先順位は低かった。いざとなれば自分で買い足しに行けばいいし、スケジュール的に、年明けまでこのハイドアウトを利用する機会は訪れないと思っていたせいもある。今のような事態に見舞われる可能性など考えてもいなかったのだから仕方がない。ため息をついて頭をかき、その手をコートのポケットに突っ込んだジャンは、指先に触れた硬い感触に記憶を蘇らせた。
(……あ、こいつがあったな)
今日、孤児院に持って行ったお菓子のギフトボックス。ボンドーネの名と財力を使ってジュリオが用意してくれたそれを興味津々に――いったいどんな高級菓子が納められているのか、と――眺めていた時に、ジュリオが「ジャンさん、の、分です」と言って手渡してくれた物が今、ジャンのポケットの中にある。
取り出してみると、星を象った形に金紙の貼られたその箱は、黄色い裸電球の灯りの下で鈍い光を放った。巻かれていた赤いリボンを解き、側面を持つ手に軽く力を込めると簡単に蓋が開いて中が覗ける。
(へぇ……子供でも簡単に開けられて良さそうだな、コレ)
感心しながら中身を確認すると、そこには美しい焼き色のアイスボックスクッキーが整然と納められていた。鼻をくすぐるバターの香ばしい匂いに目を細め、ジャンはソファに座るバクシーに歩み寄る。
「ほら、これでも食っとけよ」
座っているせいで自分よりも低い位置にあるバクシーの鼻先にギフトボックスを差し出す。ずっとジャンの動きを目で追っていたバクシーは反射的に手を伸ばしかけ――だが、毛布から出されるよりも前にその手が止まってしまった。銀色の目が、星形のギフトボックスに――その表面に貼られた金紙の光に吸い寄せられたように固定されて、そのまま動かない。
「何だよ、毒なんて入ってねぇぞ?」
バクシーを見下ろしたジャンは眉を顰めてそう言うが、バクシーは電池の切れた玩具のように微動だにしなかった。肩を竦めて大きく息をついたジャンは、箱の中に手を入れ、クッキーを一枚取り出す。
「ったく……しょうがねぇなぁ。……ホラ、ちゃんと食える……んぐ、つかウメェなコレ……」
毒見のつもりで口の中に放り込んだクッキーをじっくり味わってからごくり、と飲み込んで。それからもう一枚、クッキーを指で摘み上げたジャンは、今度はバクシーの口許にそれを押しつける。
「口開けろっつーの。ほれ、あーん」
唇を押してくるざらついた感触と、鼻先をくすぐる甘いバターの香り。諦めたように開かれた唇の隙間に押し込まれたそれが舌先に触れた瞬間、ほんの一瞬だけ、バクシーの目が揺れた。口の中の水分を奪っていく甘い塊を丁寧に咀嚼し、飲み下す。うっすら開いた唇の合間から、掠れたような声が零れ出た。
「甘ェ、な……」
「何、お前甘いモン嫌いなのか?」
「…………嫌い、じゃ、ねぇ」
「だったらコレ、ここに置いとくから残りは好きに食っていいぜ。俺は飲み物でも淹れてくるわ」
ソファの脇に置かれたサイドテーブルの上にギフトボックスを載せると、ジャンは踵を返して再びキッチンに向かう。古い床板を鳴らして遠ざかる背中を、バクシーは毛布に埋もれたまま無言で見送った。
少し離れたキッチンから蛇口の軋む音のあと、静かな流水音が響いてくる。その音を聞きながら、バクシーは毛布の中でゆっくりと息を吐き出した。細く、震えるような吐息だった。
銀色の双眸が、サイドテーブルに載せられたギフトボックスへと向けられる。リボンの跡が残る金紙が――薄暗い照明を反射する安っぽい光が、やけに眩しく網膜を焼いた。
畏れと躊躇いを振り払うように、何度も瞬きを繰り返し。毛布を内側から握り締める拳をゆっくりと開いて。バクシーは、金色に光る星に手を伸ばす。箱に触れた指先は、小さく震えていた。
「…………誕生日に甘いモンもらうなんざ、初めてだ……」
微かな呟きは毛布の内側に吸い込まれて、発した本人さえも聞き取ることはできそうになかった。
鉤爪のような指が、箱の中身を一枚取り上げる。普段なら器用に何でもこなすはずの手が、ひどく不器用な動きでそれを口許へと運ぶ。鼻先をくすぐる甘い香りに、バクシーは毛布の陰でそっと睫毛を伏せた。白く健康的な歯が香ばしいクッキーを怖々と噛み砕く。
静かに燃える胸の裡。甘い塊が、ほろり、解けた。