執務室の椅子に座っていたジャンは、右手にコーヒーを持ったまま黒い革張りの背もたれにぐったりと体重を預けた。瞼を閉ざした白い顔には疲労が色濃く顕れている。
(あー、目を開けたらぜーんぶ夢でした、ってことになんねぇかなぁ……)
益体もないことを考えながらそのまま数秒を待機したカポは、金色の睫毛を震わせながらゆっくりと瞼を持ち上げる。開けた視界の中、目を閉じる前と寸分違わぬ表情でこちらを見つめている三人の部下たちの姿がそこにあった。
(ですよねー、知ってた)
期待が儚く散ったことにため息をついたジャンの口から、呆れた調子の声が飛び出す。
「おまいら揃いも揃って暇人かよ……そんな出処の怪しい噂なんていちいち取沙汰してたらキリがねぇって」
目の前の優秀な部下たちが、暇を持て余すどころか目も回るほどに忙しいことを充分承知しているジャンだが、それでも言わずにはいられない。だが、それを受け止めた幹部たちの表情にも態度にも変化は見られなかった。
「お言葉ですが、ジャン、さん……出処ははっきりしています」
「ルキーノのところのカンパネッラ。あいつがお前から直接聞いた話だと、ジョバンニもザネリも言っていた」
「あいつは少々早とちりなところもあるが、嘘をつくような男じゃない」
「カッキオ……」
思わず口から飛び出しかけた怨嗟の言葉を単語一つに収めて堪え、ジャンは再び深いため息をついた。
(カンパネッラ、あの野郎……昨日の今日で、口が軽すぎるにも程があんだろうが!)
昨日、カンパネッラはルキーノの命でジャンの運転手兼護衛を務めた。その仕事の最中、デイバンの街中を車で流していた時のこと。通りに新しいカフェができていることに気づいたジャンが何気なくそれを話題にすると、カンパネッラは食いつくようにその話題に乗ってきた。
最初はカフェの内装やメニューについて話していたはずが、次第にウェイトレスの制服の胸元やスカート丈へと移り変わり、最終的に一人のウェイトレスの話題に終始することになる。
そのカフェで働くウェイトレスの一人にカンパネッラが執心していること。何度か誘いをかけているが、今ひとつ手応えを感じられないこと。そのことについてアドバイスを求められ、適当に返していた時にうっかり。本当にうっかりと、ジャンは口を滑らせてしまったのだ。
「ジャン、さんのご様子ですと……お付き合いをされている、わけではない、ですよね……?」
「長い付き合いの俺にだけでも、こっそりと教える気はないか?」
「恋愛相談ならベルナルドより俺の方が適任だと思うがな」
下らないことを言っている暇があったら仕事をしろ、と言ってやりたいジャンだったが、生憎と現在は仕事に一段落がついて一息入れていたところだ。仕事の手が空いて、ジャンがコーヒーを所望し、それが全員に行き渡ったところで見計らったように持ち出された話題。最初からタイミングを計算されていたのだと、既にジャン本人も察している。
(今日は顔を合わせた時から全員妙にそわそわしてると思ってたんだよな……)
舌打ちを堪えながら口許に運んだカップを傾け、少し冷めかけているコーヒーをジャンが啜ったその時。執務室のドアが勢いよく開けられた。
「よぉ、ジャン。こっちは全部片付いたぜ」
「おいイヴァン、ノックぐらいしろといつも言ってるだろうが」
「あぁ? うるっせぇなぁ。いつ兵隊どもが入ってくるかも分かんねぇような場所で、聞かれちゃ困るような話でもしてたってのかよ?」
「お疲れちゃん、イヴァンちゃーん。もーこいつらに言ってやってくれない? つまんねぇ与太話に振り回されるなってさぁ」
上位幹部に説教をかまされて不機嫌な犬みたいな表情をした最年少幹部が、今日ばかりは天の御使いに見える、と思ったジャンだったが。思惑に反して、イヴァンはスゥッと細めた目でジャンの顔を睨むように見返して。
「その与太話とやら、俺もアルから聞いたぜ。ジャン、お前、好きなオンナができたらしいじゃねぇか」
「アル、お前もか……」
イヴァンはこの場を収集してくれるどころか焚き付けをくべに来ただけらしいと悟ったジャンは、悲痛な声を上げ、天を仰いだ。その手に持ったカップの中の残り少なくなったコーヒーの水面が派手に揺れるのを、ジュリオがハラハラとした表情で見つめる。
しばらく天井を眺めていたジャンは、徐に顔を元の位置に戻すと、デスクの上のソーサーに静かにカップを載せた。
「……あのさぁ、全部カンパネッラの勘違い。早とちり。あいつ、何か誤解してんだよ」
疲れたような表情でそう言ってみるが、誤魔化されてくれるような相手ではないのはジャンも重々承知の上だ。それでも、自分がこの話題を心の底から避けたがっているのだと伝われば、引き下がってくれるのではないかという一抹の期待に賭けたわけだが。
「ジャン、さん……最近、少しご様子がおかしい、と思ってたんです……」
「――――っ……」
躊躇いながらも言わずにはいられない、という口調のジュリオの視線は不安に揺れている。ジャンのことが心配でたまらないと訴えてくる、白皙の美青年のその表情に、ジャンはどうにも弱かった。思わず言葉に詰まってしまうと、畳みかけるように他の幹部たちも声をかけてくる。
「ジャン、どうしてそんなに頑なに隠そうとするんだ? お相手を知ったからといって、無粋な真似をするとでも思われているのかい?」
「相手に何か問題でもあるのか? 俺たちに知られちゃまずいような」
「――――!!」
探るようなルキーノの言葉に、ジャンは反射的に息を呑んでしまう。まずい、と思った時にはもう、その場にいた全員がそのことに気づいていた。
「そうなんかよ!? お前、まさか相手は人妻とか言うんじゃねぇだろうな!?」
「落ち着け、イヴァン。人妻、ならば……夫が死ねば未亡人に、なる。死別なら再婚に問題は、ない」
「テメーが落ち着けや!? 問題アリアリだろーが! ナイフ取り出すんじゃねぇぇ!!」
「ストーップ! 何回も言わせんなっての! この話はこれで終わり! 俺には好きなやつとかいないから。そういうことで、お前らみんな仕事に戻れ!!」
四人の顔をそれぞれ睨むようにしながら、有無を言わさぬ口調で一息に言い切る。普段は明るく飄々とした調子で、それを滅多に崩すことのないジャンの気迫に、幹部たちは思わず言葉を呑み込んだ。
これ以上の追究は悪手だと悟って粛々とそれぞれの事務作業へと戻っていく幹部たちを見て、悟られないように小さなため息をついたジャンは。
(今はまだ、相手が女だと思われているだけマシ、か……)
ごく最近自覚したばかりの自分の恋の相手が、実は人妻どころか女ですらなく。れっきとした成人男子、それも、敵対組織の幹部――あの、ショットガン・バクシーであると露見した時のことを考えたジャンは。頭よりも胃の方が痛くなってきた、などと考えながら窓の外へと視線を投げる。
(もし、この噂が、万が一――百万が一、あいつの耳に入ったとしたら……)
あくまでも組織の、それも上層部の人間の間でだけ流布しているような噂がバクシーの耳に入る可能性は限りなく低いだろうと思いながらも、思いを馳せずにはいられない。
(俺の好きな女を突き止めて利用してやろう、とか考えそうだよな、あいつなら……)
目的のためなら手段を選ばない、躊躇うことなく卑怯な真似に及ぶことのできる、その男の顔を思い浮かべ。よりにもよってどうしてそんな相手を好きになってしまったのだろうと、舌打ちを鳴らしたい衝動を押し殺し。もしも祝福めいた言葉の一つも投げかけられた日には、死にたい気分になれることは確実だ、と。苦々しい気持ちを抱え込む。
窓の外を眺めながら、冷めきって味の落ちたコーヒーを飲み干すカポの憂い顔。その横顔を密かに窺い見る四対の視線が、それぞれに複雑な色合いを帯びていたことは、誰も知らない。